新チャンネル「怖い話・不思議な話・イヌマケドンTV」

新しくチャンネルを作りました。

その名も怖い話・不思議な話・イヌマケドンTVです。

 

内容は、「小説動画」つまり自作の短編小説を動画にしたものです。

つまり、よくある「小説の朗読」動画に、キャラクター画像やアニメーションを追加したものになります。

 

もう少しわかりやすく言うと、紙芝居をレベルアップさせたようなものです。

本当はアニメにできればベストなんですが、そこまでのスキルも無ければ、時間と労力もかけられず、ご容赦頂ければと思います。苦笑

 

ちなみに、当初は、ショートストーリー動画はチャンネルを分けようか散々迷ったんです。

が、新チャンネル開拓という地獄ロード(誰も見てくれない苦痛)を避けたい思いが強かったんですよね。苦笑

でも、今回、甘んじて苦痛をうける覚悟を決めました。笑

 

というのも、今まではメインチャンネルの考察動画の中に組み込んでましたが、そうすることの評価がまちまちだったというのもあります。

オカルトや都市伝説、特にスピリチュアル系が好きな人だから、怪談とか「世にも奇妙な物語」みたいな不思議系フィクションが好きかというと「そうでもない」みたいですね。

僕は好きなんですけどね。笑

 

というわけで、過去に制作した動画の字幕部分を見やすくしたり調整して、再度作り直したものをアップしました。

内容は以前と同じですが、タイトルやサムネをちょこっと変えました。

※ これに伴い、メインチャンネルから小説動画の部分だけを全部削除しました。

 

 

この作品のテーマは「動物の転生」です

まずは、今回の小説動画のストーリーについて少し触れたいと思います。

最初にお伝えしておきますと、本作品は、メインチャンネルの動画を念頭に置いたものではありません。

むしろ、その逆でして、小説の方が何年も前に作られました。

 

当時、この作品を書くにあたり、2つテーマがありました。

ひとつは、犬の転生の話を書きたいなということ。

そして、もう一つは、犬がしゃべれるとしたら、なんて言うだろう? なんて言わせよう?ということでした。

前者が隠れたテーマで、後者は表立ったエンタメ的なテーマです。

そして、これらのテーマが生まれた理由としては、我が家の愛犬の存在が非常に大きいですね。笑

 

ちなみに動画内で避難所や神社、ホテルとか引き合いに出して「犬差別」とか言ってる部分は、そのエンタメです。

自分が本気で「けしからん!」と思っているわけではないので誤解しないでほしいところですね。苦笑

犬(動物)の人間への転生について

今回は、とくに「犬の転生」についてお話しますと、そのことはメインチャンネルでも過去に2度ほど触れています。

それは、犬の魔力についての動画(ロバートモンロー氏のお話)と、吉田寿治氏の動画の中においてです。

二人とも「動物は人間に転生する」という話を書籍に記しています。

 

その一方で、311予言で有名な松原照子氏は「動物は人間に転生しない」と言ってますので、説は別れます。

というか、松原氏は「転生も存在しない」と言っているので、そもそも、犬も人間も一度っきりの人生ということになるんですよね。

これ、けっこう自分とは考え方が異なります。笑

※ と言いつつ、「転生は存在する」と「転生は存在しない、一度きりの人生である」という両者は実は「併存」することができると個人的には思っていまして、その話はまた別でします。

 

では、日月神示はどのように書いているかといいますと、動物について触れている箇所があるので引用します。

そこには人間とそれ以外の存在との「心」の違いは、「濃い薄いの違い」であると書かれています。

 

心は草にも木にも石にもあるぞ。天にまたたく星にもあるぞ。ただ薄いか厚いかの相違であるぞ。

 

ここでは、通常、意識すらもたないと言われている「鉱物」や「植物」に対して「心」があると書いているのです。

ちなみに、「動物」とは書かれていませんが、鉱物→植物→動物→人間の序列を考えれば、当然ながら中間に位置する「動物」にも心があるということが言えますね。

そして、それは薄いか厚いかの違いであると言っています。

人間と鉱物・植物・動物の「心」の違い

でも、なぜ人間は心が厚くて、それ以外の存在は薄いのでしょうね?

人間とそれ以外の存在の「心」の違いは何なのか?

これについて日月神示では、次のように人間は動物とは異なると言っています。

 

故に、歓喜は肺臓と心臓とを有する。この二つは、あらゆるものに共通であって、植物にもあり、鉱物にすら存在するものである。人間の場合は、その最も高度にして精妙なる根本の心臓と肺臓に通ずる最奥の組織を有する。これはもはや心臓と表現するには あまりにも精妙にして、且つ深い広い愛であり、肺臓として呼吸するにはあまりにも高く精巧なる真理である。而して、この二者は一体にして同時に、同位のものとなっていることを知らねばならない。それは心臓としての脈拍でもなく、肺臓としての呼吸でもない。表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現われである。其処に人間としての、他の動物に比して異なるもの、即ち、大神より直流し来るものを感得し、それを行為し得る独特のものを有しているのである。

 

「歓喜の肺臓と心臓」という非常に抽象的なお話で分かりにくいのですが、「大神より直流し来るものを感得」できるのが人間の独特な部分であると書いています。

この一節からも、そして生物学的にも人間は動物以下の種とは一線を画すことは明らかといえます。

 

しかし、人間の独特さを他の存在が得ることができるのかどうかという点までは言及していません。

確かに人間は特別ではありますが、鉱物、植物、動物が人間のレベルに「進化できない」とまでは書かれてないのです。

まあ、人間の生き方の指南書の観点では、そこまで書く必要がないんでしょうけどね。苦笑

 

でも、振り返りますと、日月神示では、鉱物、植物、動物と、人間の「心」の違いは、「濃い薄いの違い」であると書いていました。

濃度の差のみということは、鉱物、植物、動物、人間すべて、同じ種類の内容物で「心」が構成されていることがわかります。

 

であるならば、その「心」を濃くすることができさえすれば、鉱物、植物、動物といえど、心だけは人間と同じものになるということになります。

体は容れ物で、心が主体ですから、心が人間になれば、彼らも人間へ転生は可能ということになりますよね。

 

もちろん、彼らが主体的にそうすることができれば、もしくは、そうしたいと思うならばの話ですが、どうなんでしょうね?

吉田寿治氏の神風特攻と「魂の濃い薄い」

この「心の濃い薄い」については、前述の吉田氏も、霊魂彗星の役員の役割の話の中で、興味深い話をしています。

地球に衝突する隕石を破壊するのが役員の仕事なのですが、役員は神風特攻隊のように隕石に自ら衝突することで地球を救うのだそうです。

そして、隕石も役員も、お互い消滅すると書かれています。(おいおい。苦笑)

 

霊魂の役員でありながら「消滅する」って矛盾してね?って思うかもしれませんが、具体的にはこういうことのようです。

特攻のあと、役員の意識はバラバラになり、そのバラバラになった意識それぞれは、もはや個を維持できなくなる、から、役員としては消滅したも同じ、ということなのです。

 

実は、この一節から導かれる発見があります。

それは、「意識・心」というのは、とても定量的で、まさに、濃い薄いの尺度で測れるものだということです。

(実際、吉田氏は本の中の別の箇所で、数値を使って精神のレベルを表現しています)

とすれば、「意識を厚くする」作業をすることで、鉱物・植物でさえも人(の心)になれるわけです。

もちろん動物でも同じです。

 

それでは、その「意識を厚くする作業」とは何かというと、恐らく、二極性の統合プロセス、経験と気づきを得る作業を指すのではないかと思うのです。

つまり、僕たち人間でいうところの、この地球上での人生、つまり「生死のプロセス」そのものです。

つまり、転生を何度も繰り返すことで得られる、人間の意識の進化、そのプロセスこそが、意識を厚くするプロセスなのです。

 

実際、モンロー氏の説では、人生を一つ終えるごとにIT集合体(自分自身の意識の集合体でありハイヤーセルフ)のメンバーが一人増えるとしていますから、まさにその「厚くする」という表現にぴったりです。

日月神示でも、上の世界にはさらに上があり、それが永遠に続く生命の弥栄、というような表現で示しています。

抽象的ではありますが、全ての存在が上の意識レベルに進化し、その限界はないという意味にとれます。

つまり、人間は人間の上にある人間とは別の存在に進化し、植物や動物も同様ということです。

 

こうして、鉱物や植物、動物も、人間を含めて他の多くの種と共生することで、彼らなりに二極性の統合、経験と気づきを得るのだろうと思います。

人間と比較して植物も動物も一度に大量に種を残しますから、たくさんの経験をハイペースで収集していくことになります。

とくに人間と接することで、本能以外の性質(理性)に触れることができます。

その意味で、イルカの類は人間に近いとは言いますが、むしろ犬や猫の方が人間と接する機会が多いですから、進化のチャンスは多いのではないかと思ったりします。

 

最後に、短編小説を動画化した理由

最後に少し余談です。

短編小説を動画化した理由について話したいと思います。

そもそも「小説執筆」は没頭できる趣味になりうる

創作、というか「エンタメ小説」というのは純文学とは異なり、基本的には「面白い」かどうかということを念頭におきます。

その上で、とくにエンタメ小説の執筆というものは、以前にブログでも書いてますが、僕にとって一種の「発見」でもありました。

 

 

何を発見したかというと、まず、小説を書くことは、他の色んな趣味と同じく、没頭できるものであるという発見。

そして、ある種のパラレルワールド的な、もう一つの現実世界を作り出すという発見。

しかも、その世界を自分で楽しめるのです。

 

例えば、自分がスッキリする小説を書けば、それを読むと、人気の映画を見た後と同じくらいのスッキリ感があるのです。

自分が書いたものなのに……、そう感じることができるのです。

 

ただ、問題は、自分がスッキリすることを目的にしているので、他人がどう思うかは別問題ということですね。苦笑

そこがプロ作家とは異なるところです。

もちろん、自分が好き勝手に書いたものを、他人が「面白い」って言ってくれれば、それに越したことはないんですけどね。

その意味では、「面白い」ってコメントくれた人がゼロでなく、ちらほらいたことは、とても救いになっております。笑

小説を読むのと、動画で見るのとは全然ちがう

前置きが長くなりましたが、なぜ小説を動画にしようと思ったか。

それは、文章を書いててこれだけ楽しいんだから、動画にしても同じように楽しいだろうと思ったからです。

単純な理由です。

 

もちろん、動画制作というのは、割と大変な作業です。

でも、完成した時の達成感がその大変さを帳消しにしてくれます。

いや、その過程も楽しいですけどね。(今のところ。苦笑)

 

そして、新たな発見もありました。

それは、完成した動画と、もとの小説の「全体的な印象」が大きく異なる場合があるということです。

なぜ違いが出るかというと、やはり、絵がある分だけ感情移入するからでしょうね。

おまけに、文字の時には発見できなかった、キャラクターの新しい一面も浮かび上がってきます。

動画化する過程で、よりキャラが引き立ってくる、なんとこともあるのです。

 

これらの要因によって、文字だけの時よりも感情が少しだけ多めに揺さぶられることになりますから、結果、面白いんでしょうね。

文字と絵の違いを味わえるというのも、大きな楽しみの一つになっています。

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