先祖のタタリという話をよく聞きます。
神の怒り等の話もこれに似てますが、これは後述。
先祖のタタリを気にする人は多いですが、これには誤解が多く含まれてます。
その誤解から思わぬ被害・損害を被ることもあるので、
まずは誤解を解くためにいくつか論点を分けて考えてみましょう。
ほとんどは霊感商法の罠
先祖のタタリの話は、現代では、そのほとんどが程度の差こそあれ「霊感商法」です。
今の世の中に生きている人は、「先祖を大切にしましょう」という言葉の裏に、
「寺」「墓石販売業者」「墓地分譲業者」などの様々な団体・業者の思惑があることに気が付かねばなりません。
先祖を敬うのは「心」であって、「モノ」ではありません。
「モノ」はあったほうが「ない」に越したことは無いですが、「心」があっての「モノ」です。
「心」より「モノ」が先にくるのを「偶像崇拝」と呼び、各宗派のマスターはこれを固く戒めたものですが、
今では、その戒めは商業主義により無視されています。
まずは、自分を産んでくれた親、そして先祖を大切に思う心があり、
その後に、ささやかなものでも構わないので、その生きた証を残してあげるというのが本来の考え方であったと思います。
高価な墓石や豪華な葬儀は、それをできる余裕のある人がすれば良いのであって、
これが先祖供養の唯一かつ最善の方法ではないということを知らなければなりません。
呪い、タタリの本質は「自分の念」
呪いやタタリ、要するに「念」が物理的に影響するかという問題です。
結論から言いますと、自分の心がそれに同調しない限り影響しません。
つまり、呪いやタタリと同じような想念を継続的に抱かない限り、それに影響されることはないです。
要するに他人からの念と言うよりも、自分の念です。
自分の念が自分を作ります。
スプーン曲げや念写などでは念が物理的に影響しているように思いますが、
これは「念」と同種ではあっても、幾分か異なるエネルギーであると思います。
(そもそも、そんなものは無い!と言う人もいるかもしれませんけどね。苦笑)
では、そのエネルギーが人に影響するかという問題ですが、
物体に影響を与えることができるという事は、人にも少なからず影響を与えるものと思われます。
気功師が人を自由自在に操る映像をテレビでご覧になられた方もいらっしゃると思いますが、それが良い例かと思います。
ただし、そういったエネルギーも自分が拒否すれば、影響されないようです。
例えば、大槻教授が良い例ですが、心がそれを拒否すれば、体はそれを受けずに済むのです。
逆にスプーンなどのモノ・物体は(仮に意識があったとしても)意思がないので拒否はできません。
なので、曲がるのではないかと思うのです。
実際にタタリがあった人はどうする?
いくつかの事例を見て思うに、タタリがあったと思っている人は、やはりタタリというものを信じているようです。
引き寄せの法則と同じく、信じるものは現実化します。
期待と不安は同種のエネルギーであり、現実化に一役買うものです。
あと、テレビなどの怪談特集で視聴者の事例を紹介することもありますが、
これらの一部は放送作家の作ったフィクションであることが暴露されています。
心霊写真やビデオ映像なども、稚拙な小細工で心霊映像っぽく演出したものが多くありますので、
あまりに出来過ぎた祟りの話等は、怪しいなと疑って、
テレビの情報に振り回されないようにするのが良いです。
無駄に怖がるのは自分自身を祟っているのと同様ですので。
先祖や神がなぜ怒る必要があるのか?
そもそも、自分に優しくしてくれた両親、お爺さんお婆さんが、なぜ死んでから自分に不幸をもたらすのでしょうか?
死者が「墓参りしろ」とか、死後に遺族に文句を言う必要はまったくありませんよね。
何か言いたいことがあるケースはあるかもしれません。
ケガや病気に気を付けろよ、とか。
でも死んでから、墓石だとか仏壇だとか物理的・物質的な概念・世間体に執拗にとらわれるなんて俗っぽいことは、まず考えられません。
ましてや、神様が怒るなどという話もよく聞きますが、これも不思議な話です。
人々に害悪をもたらす存在を神と呼べるでしょうか?
確かに生前、ものすごく心の狭~い先祖であったなら、
「先祖供養をしないのはけしからん!」
と、恨むこともあるかもしれませんが。苦笑
普通は死んだら、物質から解放されて、真実に気が付くものです。
「なぜオマエにわかる?」と言われそうですけどもね。苦笑