いやあ、寒くなってきて、いよいよ年末感が漂ってきましたねー。
僕はITの仕事してますが、この年末は納期のラッシュで気の抜けない毎日を過ごしています。
ていうか、何年振りかの大忙しな状況になってしまいました。苦笑
体調を崩さないように頑張らなければなりません。
さて本題ですが、年末といえば都市伝説の季節ですね!!
は?
って言われそうですが、年末ってなぜかオカルト・UFO・超能力・予言とかの都市伝説系のTV番組が増えるんですよね。
というわけで本ブログも都市伝説ファンの人のために年末特集です~♪
いや、ほんと、読者が増えました。
なので今日は久々の「謎の古代史」系の話をしようと思います。
テーマは「アラハバキ」です。
一般の人で「アラハバキ」と聞いてピンとくる人は非常に少ないと思いますが、歴史が好きな人はもしかしたらご存知かもしれません。
あと、マンガでとかゲームで出てくるみたいですね。。。汗
または寺社仏閣が好きな人なら、荒祖(アラバキ)神社とか荒覇吐(アラハバキ)神社とかの名を聞いたことがあるかもしれません。
でもこのアラハバキという神様は、不思議なことに日本に昔からいる神様なのに、なぜか古事記や日本書紀には一切出てこない謎の神様なのです。
名前もなんだか怖そうな名前ですし、これは何かある!
そう思いましたので、今日はアラハバキとは何者かを検証してみました。
東日流外三郡誌とアラハバキ
僕がアラハバキを初めて知ったのは、もう20年以上昔で、それは東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)という歴史書の記述からでした。
その本を読むとアラハバキという神様が出てくるのです。
それ以来、ちょいちょい色んな関連する書籍を都内の本屋まで行って探したりしてます。
ちなみに独身時代に東北地方へ一人旅に行った時も「アラハバキの名残は見つかるだろうか?」なんて期待もあったんですよね。
というわけで、まずはその「東日流外三郡誌」を取り上げなければ始まらないので、この文書について解説します。
アラハバキと遮光器土偶
東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)とはなにか?
「東日流」で「つがる」と読みます。
つまり青森の津軽のことを指し、津軽周辺地域の歴史書です。
時は1970年代、青森県にお住いの和田喜八郎さんちの天井裏からリフォーム中に見つかったという江戸時代に書かれた古文書です。
いやあ、とても軽い感じの大発見です。
うそくせえ…。
と、ついつい疑ってしまいそうですが、実際、マスコミにも取り上げられ本物か偽物か大きな騒動になったそうです。
和田さんも先祖(?)が謎の文書を残したおかげで、さぞ大変だったことでしょう。苦笑
さて、その古文書には東北地方の縄文、弥生時代からの歴史が書かれていたらしいのですが、残念ながら学界からは偽書として認定されております。
その理由は古文書の体裁をなしてなかったり、後世に継ぎ足したとしか思えないような内容も雑多に含まれているからだそうです。
ちなみに都市伝説業界でも「古史古伝」に分類しており、正当な歴史書とは異なるトンデモ文書として分類されております。
古史古伝(こしこでん)とは、古代史の主要な史料(日本の場合なら『古事記』や『日本書紀』など)とは著しく異なる内容歴史を伝える文献を一括して指す名称。種類が多く、また超古代文献・超古代文書ともいう。なお古史古伝は今のところ、いずれも学界の主流からは偽書とみなされている。
さらに、この東日流外三郡誌が発表された際に、あたかもアラハバキ神とは遮光器土偶である、みたいな印象操作がなされたそうです。
なので、歴史好きな人で遮光器土偶がアラハバキ神だと思っている人も多いみたいですが、それは間違いです。
僕も、遮光器土偶がアラハバキだとは思えません。(後述)
でも、個人的な感想として、東日流外三郡誌がまったくの偽物とも思えないんですよね。
いくら古史古伝=偽書認定されているといえども内容次第と思うのです。
本当に存在した昔からの伝承、言い伝えなどもそこに書かれているかもしれません。
1つ2つ嘘があるから全部嘘だというのは、ちょっと乱暴じゃないでしょうかね、何事も。
しかも後世にその証拠が発掘されたりすれば、一転してホンモノ認定されちゃうわけですからね。
なので僕は、ある程度は事実も含まれているとして読むことにしています。
東日流外三郡誌・古代編の要点
ところで、東日流外三郡誌は古代から江戸時代まで、とても長い歴史が書かれたものです。
今回はアラハバキの出てくる、「古代」に係る部分だけ要点をまとめてみました。
詳しく知りたい人はこちら(原書)を読んでください。
やっぱ、何事もオリジナルが大事です。
が、「買って読め」と言って終わるわけにはいきませんので、古代編の2冊を、本当~にざっくりですが、まとめますと次のようになります。
<日高見の国>
・古代、北海道は日高の国、東北地方は日高見の国と呼ばれていました。
・日高見の国の中でも、北の方は東日流(津軽)と呼ばれていました。
<アソベ族とツボケ族>
・大昔、そこにはアソベ族という人種が住んでおりました。
・そのあとツボケ族がやってきてアソベ族としばしば争いになりました。
・両族とも山や海での狩猟生活が主で、次第にツボケ族が優勢を占めるようになりました。
<邪馬台国>
・その頃、邪馬台国は広くゆるく日本を治めていました。
・邪馬台国とは、元々、大陸から見て「ヤンマオタイ」つまり、葦の生い茂る大地の意味だったそうです。
・ある時、日向の国に我こそは天神の子孫と名乗る南蛮からやってきた一族が現れます。
・その一族は大麻と女で敵を懐柔し、日向の国を治めていた猿田彦を配下に治めます。
・その勢いは止まることなく、出雲の一族を買収し味方につけ、ついには大和まで攻めてきます。
・この一族の長が、あの初代「神武」です。
<アビヒコ・ナガスネヒコ>
・大和の国のアビヒコ、ナガスネヒコはこれを向かい打ち、神武の兄、五ツ瀬などを討ちますが、ついには敗れます。
・敗れたアビヒコとナガスネヒコは日高見の地で合流し、この地を新たな故国として移住します。
・アソベ族とツボケ族は、アビヒコとナガスネヒコに討伐され仲間となります。
<アラハバキ族>
・さらに大陸から高度な技術を持った一族が漂流してきて仲間になります。
・この段階で、かれらは自らを「アラハバキ族」と名乗り、日高見の国を長く治めることになります。
・高度な技術で戦力を増したアラハバキ族は、邪馬台国を取り戻さんと何度も南下し日向族を追いやります。
・その結果、国はまとまらず、神武以降、欠史8代となってしまったそうです。
<蝦夷と征夷大将軍>
・その後、朝廷はアラハバキ族を「蝦夷」と呼び、幾度も討伐部隊を送るようになります。
・討伐部隊の長を征夷大将軍と呼び、その呼称が江戸になるまで用いられます。
・朝廷軍は何度も襲ってくる割に、毎回ほとんど戦果はなく、徒労に終わります。
・歴史では坂上田村麻呂が蝦夷を打ち破るとありますが、実際には城を作って討伐もせず帰っていったそうです。
・そして日高見の国は十三湊を中心に大いに他国と貿易をして栄えたそうです。
以上ですが、どうでしょうか、かなり反政府派な感じがしますよね。苦笑
つまり現在の皇室の祖先である大和朝廷に対峙する敵側から見た歴史なんですよね。
日本の歴史的には悪者の蝦夷視点なので、とても複雑な印象です。
「大麻と女で敵を懐柔する(大和朝廷)」なんて部分は悪意すら感じます。笑
でもそれが事実だとしたら面白いですよね~。
そして今回の話の焦点「アラハバキ族」も出てきました。
しかも欠史八代の時代の話のようですね。
これは事実なのでしょうか。
アラハバキとは、そもそも何者か?
さて、東日流外三郡誌によるとアラハバキ族は、大陸からやってきたとあります。
日本は皇室の祖先でさえ大陸から来た人たちであるという説もありますからね。
なかでも有名なのは大和朝廷シュメール起源説です。
日本で古代オリエント研究の先鞭をつけ、1916年(大正5年)にバビロン学会を起こした原田敬吾は、ハンムラビ法典を研究するなかでバビロン民族の容貌や宗教、習俗、言語などに日本民族との類似点を多く見出し、過去にバビロン民族の一部が日本に移住してきたという仮説を提唱した。関東大震災によってバビロン学会の活動が停止した後、1927年(昭和2年)に大山祇神社の宮司三島敦雄が原田の論を継承発展させ、日本人シュメール起源説を提唱した。
ちなみに、東日流外三郡誌にも出てきました、大和朝廷の敵のナガスネヒコとアビヒコですが。
彼らのボスのニギハヤヒも、三種の神器を持っており、つまり高天原出身であると記紀にかかれています。
高天原とはつまり皇族と同じ出身であると書かれているわけです。
余談ですが、シュメール起源説が本当なら、歴史に名を遺す古代の有名人は、
みんな大陸から日本にやってきたということになりますね…。苦笑
本当かよ?って思うかもしれませんが、実際に古代は朝鮮半島まで倭国(旧日本)の領土があったくらいですから、大陸と地続きだったわけです。
であれば様々な部族が日本に来てもおかしくはないのです。
東日流外三郡誌では高度な技術を持って大陸からやってきた渡来人と合流し、アラハバキ族と名乗ったされてますが、その記述も嘘とは言えません。
アラハバキの名前の由来(密教説)
でも、どうして「アラハバキ」という名称なんでしょうね。
漢字で書くと、「荒覇吐」「荒脛巾」など色々当てられてます。
なんだかとても怖い名前だなって印象が残りますねー…。
名前の由来から何かわかることはないのでしょうか?
ざっと調べるとアラハバキと四天王寺が関係しているという説もあるようです。
四天王寺は聖徳太子が建立したとされるお寺ですが、その地名を昔は荒墓(あらはか)村と呼んだらしいのです。
でも、その地名が荒墓だったら、なにか関連があるのか、それ以上の話が何もないんですよね。
しかも荒れた墓(古墳)がそこにあったから「荒墓」という地名が付いたという記述もあるらしいのです。。。
なのでアラバキ由来の可能性は低いかもしれません。
うーん、もっと「ビンゴ!」みたないな説は無いのか!?
と思いますよね?笑
はい、信頼できそうな説があります。
古代インド神話に登場する鬼神アータヴァカがその由来で、そこに漢字をあてたという説があるのです。
「荒覇吐」「荒脛巾」は、ただのアータヴァカへの当て字なのです。
アータヴァカは、鬼神つまり悪い神様なのですが、それが仏教、密教を経由して後世に伝わると同時に善神へと生まれ変わりました。
漢字では、阿吒縛迦(あたばか)鬼神元帥、大元帥明王、または阿羅婆鬼(あらばき)などと書くそうです。
はい、阿羅婆鬼(アラバキ)は、まさに「ビンゴ!」でしょう!?笑
もう、これしかない超有力説と言ってもいいです。
このあたりの説は下記の書籍が詳しいです。(読むのしんどいですが。)
よって、東日流外三郡誌によると「高度な技術を持って」大陸からやってきた渡来人が合流したとのことですが、アラハバキ神も伝えたということかもしれません。
そしてその無敵のアラハバキ神こと大元帥明王に必勝祈願して朝廷と戦をしたということなのかもしれませんね。
ん、でも、、、ということは、アラハバキはもともとはインド神話の神で日本の土着神ではないんですね。
いやあ、アラハバキは日本古来の神かと思きや、少々残念な印象です。。。苦笑
ナガスネヒコと脛巾(ハバキ)
いや、残念がるのは待ってください!
もっと有力な説があります。
アラハバキが「荒脛巾」と漢字であてられたことから、荒い脛巾、つまり、脛巾を付けた荒ぶる神(人々)という説があるのです。
脛巾ってなに?と思ったかもしれませんが、脛巾とは脛を保護する藁で編んだ服装品です。
脚の脛(すね)に巻きつける服装品の一種。虫やいばら(茨,棘)の類から脚を保護し,雨雪をはじき防寒にもなるほか,足のしまりをよくして疲労を軽くするなど歩行時の動作をしやすくするために用いる。
古くはすねに着ける服装品の総称であったが,室町時代以後はもっぱら脚絆(きゃはん)の語が用いられている。しかし東北地方では布製のものを脚絆,ガマ,イグサ,わらなどで編んだものを脛巾と呼んで区別している。
上の図のように脛(すね)に巻き付けることで、防寒にもなるし、動きやすくもなるという優れものなわけです。
まさに「脛巾」とは、雪の多い寒い地方では必須アイテムだったと想像できますね。
旅のアイテムと言ってもいいかもしれません。
もちろん、戦のアイテムと言ってもいいかもしません。
そこでふと思い浮かぶのが、ナガスネヒコ(長髄彦)です。
ナガスネヒコとは名前の通り「脛(すね)の長い人」という意味があったそうです。
つまり、ナガスネヒコは手足の長い人だったということかと思いますが、
でも、それってもしかすると、脛巾をスネに巻くことで、スネが長く見えたのが由来ではないか?とも思うわけです。
ちなみに、ナガスネヒコは記紀では大和の住民ですが、東日流外三郡誌では大和で神武との戦いに敗れて日高見に逃れたとあります。
(記紀では自らのボスのニギハヤヒに殺されてますが。)
なるほど、実は東北に逃れたのなら、その後に蝦夷のボスとなり話がつながります。
大和朝廷からすると蝦夷のような寒い地域の人はみな脛巾を巻いているので、そういう装束の人たちのボスだからナガスネヒコと名付けたとも推測できますね。
アラハバキ=脛巾をつけた強い部族
次に、「荒脛巾」の「荒」について検証したいと思います。
「荒」という字だけを見ると怖そうな印象ですが、荒ぶる神、荒人神つまり、現人神(あらひとかみ)とも解釈できます。
現人神(あらひとがみ)は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味する言葉。荒人神とも書く。
その起源は古く、日本書紀の景行紀において日本武尊が蝦夷の王に対して、「吾は是、現人神の子なり」とのたまうとあり、万葉集にも天皇を現つ神として歌い奉る物は数多く存在する。
現人神とは「この世に人間の姿で現れた神」を意味し、記紀の時代から存在する概念です。
この現人神の荒ぶる一面(戦う、怒る)を指して、荒人神と書くこともあるそうです。
これもまた「あらひとかみ」です。
なので、「荒」という言葉は神の一面でもあり、必ずしも悪い意味ではないのです。
荒が転じて、「強い」ことの別の言い方とも取れます。
これらをまとめると、脛巾をつけた強い部族ということで、
アラハバキという名がついたとも推測することができます。
アラハバキはいつ日本にやってきたのか?(台密との関係)
ここで、アラハバキの「密教由来説」と、「脛巾を付けた神(人)」説と2つの説が出てきました。
どちらが本当でしょうか!?
時代という側面から、どっちが本当か検証してみたいと思います。
まずは、もしも密教が起源の「阿羅婆鬼」だとした場合。
密教が日本に伝わったのは平安時代くらいですから、かなり歴史が浅いことになります。
空海とかの時代です。
なるほど!
平安時代であれば、アラハバキが記紀に登場しない神であるのも、頷けます。
日本に古くからいた神様なのに古事記や日本書紀に登場しない理由は、記紀が編纂された後に出てきた新しい神様だからなのです。
では、アラハバキ神社が東北・関東を中心に広く分布していたという事実は密教とどう関係するのでしょう?
密教だとしたらお寺であるはずで、神社とはなりませんよね。
でも、神仏習合といって、もともとあった自然崇拝的な神様が、
後から来た仏教といつのまにか融合(ごちゃまぜ)するというのはよくある話ですし、
今回もまさにそれではないかと思うのです。
次に、なぜ東北や関東に密教に関わるアラハバキ神社が多いのか?
一つあるとすれば、東北地方と天台密教との関係です。
天台密教とは台密とも言いますが、天台宗の祖である(教科書にも出てくる)最澄が平安時代に始めた教えです。
そして、最澄の弟子である円仁が本格的に日本に広めたという流れです。
円仁は慈覚大師とも呼ばれています。(なんとなく「お札」とかで既視感のある字面ですね。)
この円仁が師である最澄との約束で東北地方に密教を広めたらしいのです。
なるほど、だから東北にアラハバキ神社が多いのでしょう。
そして、この密教の経典の中に登場する、阿吒縛迦(あたばか)鬼神元帥、大元帥明王、または阿羅婆鬼(あらばき)。
これらはインド神話のアータヴァカが起源で、いろんな名前で呼ばれますが、大元帥明王と呼ばれることが多いようですが、
大元帥明王は最強明王と言われる不動明王と霊力が等しいとされるほど強い神様で、それもあって信仰の対象にされることが多かったのでしょう。
東北地方のような寒い地域では凶作なども多かったでしょうから、それらも含めて土地の守り神的な存在として、祭られていたと考えられます。
アラバキ神社という名前で「ハ」を抜かしたアラバキの名の神社が存在するのも、仏典オリジナルでは「阿羅婆鬼(あらばき)」だったからでしょう。
東日流外三郡誌と時代の矛盾
しかし、この密教由来説は東日流外三郡誌と時代的に大きく矛盾します。
東日流外三郡誌ではアラハバキ族がやってきたのは「欠史八代」の時代の話として書かれているのです。
欠史八代の時代は平安時代どころか、その何百年も昔の話です。
神武が紀元前660年だとすると欠史八代は紀元前ですが、さすがに学会では否定されています。
なので、個人的には西暦200~300年代だろうと思っています。
それでも、平安時代は西暦794年スタートですから、500年以上もズレています。。。
以下、卑弥呼の検証記事で神武の時代の前後の年表を載せてますので参考までに。
ちなみに欠史八代の時代とは、神武天皇以降の2台目から9代までの天皇の時代です。
記紀に記述が少ないというだけで、なぜか「欠史」とされてしまったかわいそうな天皇の時代です。苦笑
アラハバキ族合流後の蝦夷が強くて、国が荒れたから欠史八代となった(歴史の記録が紛失した、または薄くなった)という東日流外三郡誌の理屈はわかりますけど、
アラハバキという言葉が入ってきたのは密教伝来からだとすれば、そもそもアラバキ族の存在すらあり得ない話です。
やはり東日流外三郡誌は「作り話」ということになりますね。。。
が、東日流外三郡誌ファンの皆様、安心してください。笑
東日流外三郡誌では、東北の仏教はもっと早く伝来していると伝えています。
東日流外三郡誌では、前秦の時代と書かれてますから、西暦300年代には東北に仏教が伝来しているのです!
歴史上、日本の仏教伝来は西暦500年代ですから、なんと200年も早い!(ほんとか?苦笑)
でも確かに東北・十三湊は古代から大陸と貿易をして栄えており、古代東北日本の大都市ですから、
様々な情報として仏教が入ってきても不思議ではありません。
単に体系化されてないだけで、ぼやっとしたざっくりな感じで伝わったかもしれません。笑
情報ってそもそも出たばかりの時は、
最初は一部でブームになって、徐々に広まり、最後にドカンと全国レベルに広まりますからね。
とすれば、伝わった仏典に阿吒縛迦(あたばか)鬼神元帥、大元帥明王、
または阿羅婆鬼(あらばき)などが出てきますから、そこから広まった可能性も否定できません。
うん、東日流外三郡誌は矛盾してなかったということになります。笑
密教説と脛巾説のどっちが本当か?
ここまでくると、密教説と脛巾説、どちらも本当のような気もします。
どっちが先か? どっちが古いかというと難しい問題です。
脛巾という装着具も、名称的には「脛に巻きつける布」という意味合いかと思いますが、昔からありそうですよね。
※ ちなみにモモヒキは「太ももの脛巾」である「モモハバキ」から転じたそうです。
ていうか、そもそも脛は「ハギ」とは読みますが、「ハバ」とは読みません。
とすると、アラハバキありきの名称か?という疑問もわきます。
つまり、密教のアラバキ神(明王)を信じるアラハバキ族(蝦夷)たちが「脛に布やワラを巻く」ことが多かったからアラハバキと呼ばれ、
それが、転じてハバキになったのではないかと。
つまり、脛巾の語源がアラハバキだったという仮説ですね。
ありえないとは言えませんよねー。笑
というわけで、ここまでの内容をまとめますと、アラハバキは日本古来の神でなく、
元はインド神話の神様で密教を通じて伝わったもので、
東北や関東に残るアラハバキ神社はその名残であると言えます。
そして、脛巾の語源はアラハバキ!?
個人的にはだいたい、こんな感じの結論ですね。笑
日本全国にあるアラハバキ神社
さて、ここまで、あれこれと考えてきましたが、
アラハバキが現代のこの時代にどのように名残をとどめているかを確認したいと思います。
やっぱ、アラハバキ神社の実物を見てみたいってのもありますね。
そういうのが動機で旅に行きたくなったりするものです。
実は、アラハバキ神社ってあちこちにまだ残存するのです。
さすが、青森発の東日流外三郡誌に出てくるだけあって数が多いのは東北地方です。
例えばこちら、宮城県にある荒脛巾神社の紹介ページです。
塩釜神社の末社の一つに数えられ、腰から下の病気に霊験(れいげん)があると云われており、旅の安全を祈願する人々の信仰があります。多賀城の外縁にあることから、外的退散を目的として置かれたとされ、江戸時代には伊達家から社領が寄進されるなど由緒深い神社です。
脛巾なので、脛(スネ)>足>腰から下の病気、という感じでご利益があるんでしょうね。
そして、東北地方に次いで関東地方も多いですね。
さらに西は東海地方、三河あたりにも荒波婆岐のように名前が残っているようです。
こちらのサイトに一覧としてまとまっていますね。
三河 設楽 石座神社摂社荒波婆岐社「豊石窓命、奇石窓命」愛知県新城市大宮字狐塚14
三河 宝飯 砥鹿神社摂社荒羽々気神社「大己貴命荒魂」愛知県宝飯郡一宮町大字一宮字西垣内2
遠江 麁玉 静岡県浜松市浜北区堀谷 (あらはばきやま・自然地名)
上総 市原 姉埼神社 末社新波々木社 千葉県市原市姉崎2278
相模 鎌倉 あらはばき様なる石の祠 神奈川県横浜市戸塚区公田町
越後 蒲原 彌彦神社「天香山命」神社の一角に「アラハバキ門」
この分布エリアを見る限り、東日流外三郡誌でアラハバキ族がやってきた時の蝦夷の支配範囲と同じですね。
神武東征で大和地方、尾張あたりまでは取られてしまったけど、
まだそれより東はなんとか持ちこたえているって状態でしょうかね。
しかし徐々に大和朝廷が東に攻め入り、東日本全域に存在した蝦夷のアラバキ神社は徐々に減っていくわけですね。
ていうか、その時点では神社というほどの立派な社(やしろ)などなかったかもしれません。
神社とも呼ばれてなかったかもしれません。
実際、現在ではアラハバキの名のついている神社はどれも大きな神社ではなく地方の小さな神社だったりします。
しかもご神体が単に自然崇拝的な神の依り代としての「大きな岩」であるケースもあったりします。
こちらの横浜にある神祠は昔からアラハバキと呼ばれており、ちいさな石をご神体として祭っています。
横浜市栄区公田町にはアラハバキを祀る石祠があるという。洗井沢川と表示されている小さな小川沿いの歩道を上流へ進むと数10mに亘り北村家の石垣の上に塀が続き、さらに数10m行ったところに消防団の詰め所があり、その上流に小さなプロムナードのような公園風に洗井沢川の小川が整備されている。
または、大きな神社の末社や摂社だったりするケースもあるようです。
摂社とは、その神社の敷地内に祭ってある、主催神と関係の深い神様のことです。
恐らく大和朝廷の支配が広がるにつれ、支配を示すためアラハバキの聖域に朝廷側の神社が建てられ、
でも、アラハバキの神を取り壊したら「祟り」が怖いので、摂社や末社として残したのではないかと思うのです。
さらにアラハバキ神社という名を残さずに「門客人神社」と名前を変えたケースもあるようで、有名なのは埼玉の氷川神社です。
氷川神社の摂社「門客人神社」の元の名は「荒脛巾神社」
氷川神社は埼玉は武蔵野国の一宮、皇室も参拝するという由緒正しい神社です。
祭神はスサノオなので、いわゆる出雲系の神社ですね。
氷川神社はもともと出雲の斐川にあった杵築神社を武蔵の地に移したとされています。
と言っても、すんごい古代の話ですけども。
それはさておき、みなさん氷川神社に行ったことはありますか?
僕は何年か前に行きましたけど、あぁ旅日記ブログにはまだ書いてないなあ。
一宮なので大きな神社です。
関東に住んでる人なら、ぜひ一度行ってみてください。
小さな遊園地もあるので家族連れでも楽しめます。(しょぼいけど。笑)
話を戻しますと、注目はその摂社です。
氷川神社の敷地内に摂社として「門客人神社」がありますが、実は昔は「荒脛巾神社」だったらしいのです。
「新編武蔵風土記稿」という江戸時代の地誌に、神社の名前を変えて、テナヅチ・アシナヅチを祭神に変えたという記述があるそうです。
江戸時代の氷川内記という神主が、そのように変更したそうです。
氷川神社のWEBサイトにもテナヅチ・アシナヅチの記述があります。
門客人神社(摂社)
御祭神
足摩乳命(あしなづちのみこと)
手摩乳命(てなづちのみこと)
稲田姫命の御親神。
いやあ、これはビックリですよね。
どうして名前を変え、祭神も変えたのか。。。
先ほどの「新編武蔵風土記稿」によると、元々は豊石窓神、櫛石窓神という神が祭神だったそうです。
豊石窓神、櫛石窓神とは天石門別神(あめのいわとわけのかみ)の別名らしく、日本神話の神様です。
天石門別神は古来より天皇の宮殿の四方の門に祀られていた神である。神祇官の西院では御門巫祭神として祀られて式内社とされていた。 天太玉神の子ともいう。
その名の通り「天の岩戸」の神なので、門番の神様のようです。
例えば出雲のスサノオゆかりの八重垣神社の随神門に、仁王像のように左右に鎮座しているそうです。
ちなみに上記引用に「天皇宮殿の門に祀られていた」と書かれていますが、
昔は天皇宮殿の門の守衛は脛巾を身に着けていたそうで、
それが揺らいでアラハバキ門とも呼ばれるという説もあるようですが、
情報が少なくイマイチ確信まで至らず。。。
ちなみに、この神様は天手力男神(アメノタヂカラオ)とも同一視されているらしいです。
西日本一人旅で行った天岩戸神社のキャラですね。笑
まさに門番なのですが、でも、それであれば「門神社」と呼べばいいのに、
「門客人神社」と名付けたのですから、どうもしっくりきません。
門の近くにいる神だから客人のように見えるから門客人なのだという説もあるようですが、うーん・・・。
この点、名称変更した張本人の当時の江戸時代の神主・氷川内記によると、
出雲の杵築大社の摂社が「門客人神社」であり、それに倣ったのだそうです。
でも、出雲の杵築神社の摂社も元がアラハバキ神社だったかどうかまではわかりませんし、
それに、なぜ神様まで入れ替えたのかも不明です。
思うに、神様を入れ替えたとしたら、やみくもに入れ替えたとは考えにくいので、なんらかの共通点があったのかもしれません。
インド神話の神様アータヴァカ、密教のアラバキと、足摩乳命と手摩乳命の共通点があったのでしょうか?
氷川内記という謎の神主は、そのあたりの事情を知っていたのでしょうか。
足摩乳命と手摩乳命とは何者か?
さて、テナヅチ・アシナヅチは、スサノオからすると義理の両親です。
神話で有名なヤマタノオロチをスサノオが退治するのと引き換えに、
スサノオの妻となったクシナダヒメの両親なのです。
テナヅチ・アシナヅチは、日本神話のオオヤマツミの子です。
オオヤマツミはイザナギ・イザナミの子なので、まさに日本神話の重要人物なのです。
テナヅチ・アシナヅチは日本古来の神・直系のすごい夫婦なのでした!
そんなすごい神のに「門客人神社」として祀られているという違和感もあります。
門客人とはなにかというと、神様の個人名ではなく、「お客さん」という意味なのです。
なぜ、テナヅチ・アシナヅチがお客さんなのでしょうか?
そういえば、アラハバキ神は、もともとは大陸から来た神様ですよね。
もともとは、インド神話の神様であり、それが密教とともに伝わった。
なるほど、アラハバキは他所から来たお客さんですね!!
つまり、謎の神主氷川内記は、アラハバキは大陸からやってきた神様だと知っていたのでしょう。
だとすれば、杵築大社に倣ったにしろ、門客人神社と名前を変えた理由に納得がいきます。
でもポイントは、神主・氷川内記は、そこで祭神をテナヅチ・アシナヅチに設定したということです。
氷川神社を建てたのは出雲系の武蔵国造です。
その出雲系(武蔵国造)の祖先であるテナヅチ・アシナヅチを祭神にしたということは、
つまり、アラハバキ神は出雲系の祖先と同一だということを知っていたということになります!
神主・氷川内記は、アラハバキ神社を見て「出雲(武蔵国造)の祖先」であると考えたということでしょうか!?
だとしたら、これは面白いです!笑
アラハバキ族とは東日流外三郡誌によれば東北地方の蝦夷を指します。
でも東北地方の津軽は、出雲と同じ日本海側です。
幻の津軽の古代都市「十三湊」から出雲までの日本海側は航路でつながっており、同じ日本海側文化圏なのです。
実際、出雲も東北のようなズーズー弁を使うと言いますから、昔は出雲から津軽まで同じ部族だったはずです。
とすると、アラハバキ族は日本海側全体の祖先でもあると言えるし、それはまさにテナヅチ・アシナヅチでもあるのです。
しかし、神主・氷川内記は、アラハバキという名を残すさずに名前を変えた。
なぜか?
テナヅチ・アシナヅチであれば、朝廷側の正史でもある記紀にも記載があるので無難だから?でしょうか。
出雲の祖先であるアラハバキ神社があるけど、そのままだと「おかみ」がうるさいから名前変えとけ、みたいに思ったのでしょうか?
実際、資料によると神主・氷川内記は追放されたそうなので、なにか古代史の事実を知っていたのかもしれません。笑
「手長足長」巨人伝説の謎
ところで、テナヅチ・アシナヅチは漢字で書くと、
足摩乳命
手摩乳命
ですが、どうして、手と足なのか?
夫婦の神だと言いますが、手と足に何か関係がありそうです。
長野県の諏訪には、手長神社と足長神社という神社があります。
それぞれ、テナヅチとアシナヅチを祭っています。
ん?
とすれば、手や足が長いからテナヅチ・アシナヅチなのだろうか?
偶然、名前が似てるからごちゃ混ぜになったのだろうか?
調べると、東北と日本海側に「手長足長」という巨人伝説があったみたいなのです。
手長足長(てながあしなが)は、秋田県、山形県、福島県、長野県、福井県などに伝わる伝説・昔話に登場する巨人。
その特徴は「手足が異常に長い巨人」で各地の伝説は共通しているが、手足の長い一人の巨人、または夫が足(脚)が異常に長く妻が手(腕)が異様に長い夫婦、または兄弟の巨人とも言われ、各地で細部は異なることもある。手の長いほうが「手長」足が長いほうが「足長」として表現される。秋田では鳥海山に棲んでいたとされ、山から山に届くほど長い手足を持ち、旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていた。
さらに、手足が長いという部分は、ナガスネヒコも連想させます。
とくに、人を食べる巨人伝説は注目です。
ナガスネヒコが朝廷の敵だったことから、日本の歴史では悪役の扱いでしたが、これは「手足の長い悪い巨人」に通じるものがあります。
ナガスネヒコはアラハバキ族の仲間ですし、
アラハバキ族をテナヅチ・アシナヅチと同一視できるのであれば、
手長足長はナガスネヒコがモデルであり、テナヅチ・アシナヅチと同一部族とも取れます。
確かにアラハバキ族の一部が大陸からやって来た人たちならば、
純粋な日本人よりもすらっと背が高く、結果として手足も長かったのかもしれません。
いろいろと、つながってきた感じがします。
荒神と金神とアラハバキ神
ただ、いろいろとつながるなあと思っても、
情報が少なくてイマイチ確信が持てない部分もあります。
でも「説」を補強するかの如く、世の中にはその断片的な状況証拠もちらほら残っています。
荒神社とマロトさん
面白いのはアイヌ語です。
アイヌ語で「客人」のことを「マラト」と呼ぶそうです。
発音的には「mara-pto」のようです。
これって、日本語の客人、つまりマロウドですよね。
マラトには他に、「宴」という意味もあるそうですが、客をもてなすという意味もあるようです。
それを踏まえまして、民俗学者の吉野裕子氏によれば、出雲の爾佐神社の境外社である「荒神社」は、地元では「マロトさん」と呼ばれていたそうです。
しかも、その宮司によると、昔は「アラハバキさん」と呼ばれていたそうなのです。
アラハバキとマロトが同じだとすると、前出の氷川神社の門客人神社もマロウドの神社ですから通じるものがあります。
また、アイヌ語のマラトに「宴で客をもてなす」という意味もあるとすれば、
外から来たアラハバキ神が門客神として「もてなされて」今もなお祀られるのも理解できますよね。
荒神社の荒神はタタリの神?
ところで、ここで出てきた荒神社ですが、
祭神は「火の神」であることが多いようです。(他は様々なようですが。)
火の神、全てを焼き尽くす荒ぶる神という感じです。
でも「荒」という文字が付くのも気になるところです。
マロトさんが昔はアラハバキさんだった話もありますから、
やはり、もとはアラハバキの「荒」だったのかなと思わせます。
ところで西日本に荒神信仰というものがあるそうです。
荒神とはコウジンと読むのですが、台所の神様のようですが、なるほど、火の神ですね。
確かに台所の竈とかコンロの近くの壁にお札が貼ってあったりしますね。
まさに、火の神様ですよね。
でも名前の通り、荒ぶる神ですので、神様の意にそぐ合わないことをすると祟られるとか、罰(バチ)が当たるとか、怖い神様でもあるようです。
アラハバキ神も元をたどれば、阿吒縛迦鬼神元帥、大元帥明王、阿羅婆鬼(アラバキ)ですから、めっちゃ怖いので共通してますよね。
僕の住む地域にもありますが、全国にある荒神社の起源はアラハバキ神社だったのかもしれませんね。
荒神と金神(ウシトラノコンジン)
荒神(コウジン)といえば、音が似てるのが金神(コンジン)です。
僕の実家では母親がよく「地面に穴を掘ると金神さんに怒られるよ!」と言ってましたね。
金神さんとは地面の神様で、地中の深い所にいるから、穴を掘ることは金神さんの頭を掘ってるのと同じだというのです。苦笑
同様に僕の小さい頃は、近所の子供とか平気で隣の家のブロック塀に(犬みたく)立ちションとかしてたんですが、
それは別に何も言われなかったのですが、(いや、それはダメだろ!笑)
その一方で家の庭とか地面に直接立ちションすると「金神さんに怒られるよ」と言われたものです。
金神さんは怖い神様だと母親も、祖母から教わったと言ってました。
※ ウシトラノコンジンのトドメノフミについてはこちらをご参照ください
これ、先ほどの西日本の荒神信仰と似てるんですが、金神信仰というものも全国的にあったのです。
金神は陰陽道が発祥ともいわれています。
金神というのは方位神で、俗にウシトラノコンジンと呼ばれます。
ウシトラとは方角で言うと東北のことです。
またしても東北地方と重なりますね。
このため、東北の方角は家づくりとかでも忌み嫌われたりするのです。
https://inumakedon.com/husui-myhome/
https://inumakedon.com/yakudoshi-shinchiku/
また東北地方は金の産地で、その金に魅かれて藤原氏がやってきたともいいます。
ウシトラのコンジンは、まさに東北の金神、
金の産地の神、東北の金の神なのかもしれません。
金を掘らせないために「金神が祟る!」と怖いことを言って人々を遠ざけた?
なーんて。。。
そして、その金神が荒神とごちゃまぜになったという歴史的経緯もあるようです。
読み方も非常に似ているのは偶然ではないようです。
どちらも同じ神のことを指していた可能性が高いです。
しかも荒神も金神も、その実態はスサノオであるとも言われています。
スサノオも荒ぶる神と言われた日本神話の神様です。
荒ぶる神ですから、「荒」がアラハバキと共通しますね。
スサノオがやってきて田畑や集落をめちゃくちゃにしたという話も神話に残ってますね。
日月神示とアラハバキ神
ところで、このブログで以前に触れた日月神示という書物。
予言の書と言っていいのかもしれません。
ここにも荒神でも金神でもある「スサノオ」の話が出てきます。
日月神示では、スサノオが、この世の大神様(元からいた神)であると言っています。
ただし、日月神示ではスサノオでなくて「スサナル」の大神様と書いています。
スサナルの大神様この世の大神様ぞと申してあらうがな。間違ひの神々様、この世の罪けがれを、この神様にきせて、無理やりに北に押込めなされたのざぞ。それでこの地の上を極悪神がわれの好き候(そうろう)に持ちあらしたのざ。それで人皇の世と曇りけがして、つくりかへ、仏の世となりて、さらにまぜこぜにしてしまふて、わからんことになりて、キリストの世にいたして、さらにさらにわからぬことにいたしてしもふて、悪の仕組通りにいたしてゐるのぢゃぞ
日月神示
しかも、「(スサノオを)無理やりに北に押し込めなされた」と書かれています。
これって、ここまでの流れからすると、アラハバキ族を北に押し込めたとも言えますよね?
もちろん「北」というのは東北地方・北海道地方のことです。
もとは日本の国土の大部分を支配していたけど、大和朝廷により徐々に北方に追いやられたとも読めます。
そしてそれはつまり、東日流外三郡誌に出てくる東北の「アラハバキ族」の神である「アラバキ神」なのです。
いやあ、アラハバキはスサノオだったという可能性まで出てきて、どうなっちゃうんでしょうか。笑
ますます面白くなってきました。
が、かなり長くなりましたので、そろそろ終わります。苦笑
でも、アラハバキについての考察は、まだまだ継続中です。
実は世の中には他にもいろんな説があります。
製鉄に関わる部族ではないか?とか、蛇神様ではないか?とか、
調べるとかなり面白い内容が出てきます。
また何か面白い説があれば、若干自説も折りまぜながら紹介しようと思います。