卑弥呼の正体がついに判明しました

前回、邪馬台国の比定地について書いてみました。

宮崎県の日向市あたりが妥当ではないかとい結論です。笑

歴史の本を読んだりするときに歴史的前提がないと、

イマイチ楽しめないことってありますよね。

なので歴史の謎とされる部分にも自分なりの結論をもっておきたいのです。

正解かどうかはわかりませんけどね。

まあ、矛盾が出たらその時に考えればよいのです。笑

というわけで今日は前回の続編です。

邪馬台国と言えば卑弥呼ですが、

こんなに有名な人物なのに古事記や日本書紀に出てきません。

不思議ですよね。

実際には記紀の中に卑弥呼にあたる人物がいるのではないか?

と思いまして、今日は卑弥呼の謎に迫る話です。

 

普通に考えると卑弥呼は大和朝廷と無関係

いきなりですが、普通に考えてみました。

ごく普通に一般人的な思考で偏見無しに考えると、

卑弥呼が古事記や日本書紀に出てこないとすれば、

卑弥呼は大和朝廷とは無関係だったという結論が妥当かと思います。

 

魏志倭人伝の記述を見ても当時の倭国には国が100ほどあって、

そのうちの30もの国が個別に中国に朝貢にきていたわけです。

日本に独立した小国が30くらいあったのであれば、

卑弥呼の国と、大和朝廷の元になった国は別物だったと考えることもできます。

 

でも、同じ「やまと」という国名ではないか?

この2つは別の国ではなく同じ国ではないか?

という疑問も湧いてきますよね。

 

そこは、前回の邪馬台国の記事にも書きましたが、

もしも「やまと」という国名の由来が「山戸」「山扉」「山門」であり、

つまり山に囲まれた土地の出入り口あたりのような地形から派生した名前だとすれば、

邪馬台国(やまとこく)と奈良の大和という同じ読み方の国が複数あっても不思議ではないと思うのです。

 

藤原氏の陰謀

でも、そこに疑問を投げかけるのが歴史解釈の面白いところです。

古事記や日本書紀に卑弥呼が出てこないのではなくて、

わざと卑弥呼の歴史を消したという説もあるのです。

 

記紀が編纂された当時、魏志倭人伝は日本にも渡ってきていると思いますが、

それを読んだ編纂者は「やまと」の国に「卑弥呼」という権力者がいたと書かれていて、

「ヤバイ!」と思ってわざと記紀から卑弥呼を消した

消さざるを得ない事情が編纂者たちにあったのではないかという説ですね。

 

古事記や日本書紀が編纂された時の最高権力者は天皇ですが、

実質的な権力者は、みなさんご存知の藤原氏です。

藤原氏の贅沢三昧の栄華の歴史は学校で習いました。

 

歴史書は時の権力者の都合の良いように書き換えられるというのは、

半ば常識と言っても良いですが、

とくに古事記と日本書紀は藤原氏によって書き換えられたという説は有名過ぎるほど有名で、

常識になりつつある勢いです。笑

 

蘇我氏が悪者に書かれている日本書紀

藤原氏陰謀説の中にも諸説があります。

例えば蘇我氏の物部氏との仏教導入を巡る争いが有名ですが、

実はこの件では既に中臣氏とも争っていたのです。

乙巳の変(大化の改新)よりも前に中臣氏は蘇我氏と争っていたのです。

中臣氏というのは藤原氏の前の姓(名前)です。

中臣鎌足が死んだときに朝廷からもらった名前です。

なので、中臣氏と藤原氏は同一です。

 

その中臣氏はもともと神事や祭祀を扱う役職の一族だったので、

仏教を国政へ持ち込んだ蘇我氏は敵だったのです。

神道の物部と中臣は仲良しで、一緒に蘇我氏をやっつけようと思っていたのです。

でも、先に負けちゃったのは物部氏ですね。

 

このように藤原氏=中臣氏にとって蘇我氏は、

ずっと目の上のタンコブだった背景があったので、

藤原氏の意向が働く記紀では蘇我氏が必要以上に悪者に書かれているのです。

 

実際に蘇我氏は悪者でなかったという説が最近は増えています。

僕も「蘇我氏は悪者でない説」の方を採用しています。笑

旅行記でも書きましたが、地元には蘇我氏の神社がありますし、

蘇我氏は地域では親しまれているわけですし、

冷静に見れば蘇我氏はかなり朝廷に貢献しています。

 

ちなみに中臣氏は忌部氏とも対立関係にありましたが、

藤原氏が栄華を誇るようになって忌部氏は消えていきました。

けっこういろんな氏族を潰している中臣氏(藤原氏)なのであります。笑

ところで中臣氏というのはその祖先を天児屋命(アメノコヤネ)としています。

春日大社の主祭神ですね。

とはいえ本当に祖がアメノコヤネかは誰にもわかりません。

まあ、そんなことを言ったら蘇我氏の祖が竹内宿祢であることも怪しいですけどね。。。

 

ちなみに蘇我氏の名前が最初に古典に出てきたのは継体天皇以前ですが、

中臣氏という名前は継体天皇以降に出てきましたから、

蘇我氏よりも新しいのです。

中臣氏が「急に出てきた謎の氏族」と言われる所以です。

 

実は、継体天皇には皇統断絶説・皇統乗っ取り説もあるくらいなので、

その説を採れば中臣氏の出自は「さらに怪しい」とも言えます。笑

 

あと、中臣鎌足は百済の王様説なんてのもあったりしますが、

まあそのあたりの歴史は、まだ研究中です・・・。苦笑

 

卑弥呼にあたる人物がいる!

でも、卑弥呼が記紀から除外されたというのは、

中臣氏、藤原氏の陰謀なのかというと、

個人的にはちょっと違うような気もしています。

 

というのも、

中国の書物では地名や国名でこそ当て字ではありますが、

日本語と同じ読み方で登場します。

でも人の名前に限っては中国風の名前で出てくるから、

中国の本の中には出てきているけど、読んでも気が付かないということもあるからです。

 

例えば倭の五王のように日本の歴代5天皇が、

讃・珍・済・興・武、などと、

「誰やねん!」と突っ込みたいくらいの中国風ネームで出てきます。

ちなみに讃は応神天皇ではないかとされていますけど、

普通に読んだだけでは絶対に誰だかわかりません。

 

であれば、卑弥呼も勝手に中国風に改変された名前ではないかと思うのです。

ましてや卑弥呼も魏に朝貢していたわけですから、

中国からすれば「子分」のようなものでしょうし、

中国風の名前があっても不思議ではありません。

 

つまり卑弥呼という中国名の人物は、

実は古事記や日本書紀に普通に日本名で登場しているとも考えられるのです。

 

卑弥呼にあたる人物を探す

というわけで、まずは卑弥呼にあたる人物は誰か考えてみます。

世の中でよく言われている説は以下の通り。

 

・天照大神 説

・倭迹迹日百襲姫命 説

・神功皇后 説

・熊襲のボス 説

 

これ以外にも、他にもたくさん説があるのですが、

主なものだけピックアップしました。

 

実は正直なところ、どれも「なるほどな」と思う説なのです。。。

でも真実は一つしかないわけですからね。。。

さあ、困りましたねえ。苦笑

 

卑弥呼は神武天皇の前か後か?

そこで、古事記や日本書紀に出てくる神話と歴代の天皇、

そして魏志倭人伝の卑弥呼の活動を重ねて考えてみることにします。

 

まずざっくりと、卑弥呼は神武天皇よりも後か先かを考えます。

そこで魏志倭人伝などの中国の歴史書の記述を見ると、

神武天皇が出てきたのは卑弥呼よりも後になってます。

 

もしも神武天皇が卑弥呼よりも前の時代の人で超有名人だったら、

一番古い魏志倭人伝に神武が出てくるはずですけど出てきません。

よって、卑弥呼は神武よりも古い人と推定されます。

 

って、単純すぎますかね~。笑

卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命なのか?

では仮に、卑弥呼が神武天皇より後だとすれば誰なのか?

上の説にもあった「倭迹迹日百襲姫命」だとすれば、第7代の孝霊天皇の時代になります。

でも、その時代に女王と呼べるほどの活躍をしたことは記紀には書かれていません。

 

もちろん記紀に「天皇よりもすごい女王がいた」なんてことは、

皇室の立場上、威厳を維持するためには書けないかもしれませんけどね。

 

でも魏志倭人伝という証拠があるのに嘘を書くわけにもいかないだろうし、

それを考えると、この説はないかなと。

 

卑弥呼は神功皇后なのか?

あと卑弥呼が神功皇后だという説の場合は、

第14代の仲哀天皇の時代の話になりますが、

確かに神功皇后は女王と言ってもいいくらいの活躍をしました。

 

僕も昔は神功皇后が確実に卑弥呼だと思っていたのですが、

でも、魏志倭人伝には卑弥呼が死んでから再び倭国は乱れて、

どうにも収拾がつかなくなって「台与」という女王を立てたとあるのです。

 

でも、記紀には神功皇后の後に国が大きく乱れたことも書かれていないし、

台与という女王がいたことも書かれていないのです。

いくら皇室のメンツがあるとしても、

そんな大事件が書かれてないのもどうかなと。

 

前述の通り記紀の編纂者も魏志倭人伝という証拠の存在を知りつつも、

それを全く無視して都合の良い歴史を書くことは、

やはり、なかなか出来ないだろうと思うのです。

 

卑弥呼は天照大神だった

となると、記紀に書かれている内容から、

卑弥呼レベルの女王を比定するとなると、

残るはもう一人しかいません。

 

卑弥呼は天照大御神様だったのです!

 

なんとなく「そうかな~」と思っていたけど、

ありふれた結果過ぎて「つまらない」という、

なんとも言えない気持ちですけどね。笑

でも、そう考えるとかなり「話のつじつま」が合うのです。

 

年表から卑弥呼を探し出す

さて、記紀には神話が書かれていますが、

普通に読めば、そこに書かれている神様たちは日本の支配者と考えられます。

天之御中主神から国之常立神、そして伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)らです。

 

とくに、イザナギとイザナミの段階から具体的な日本の国(地域)の名前が出てきますので、

そこらあたりから歴史として考えてみたいと思いますが、

そこには西暦が書かれていませんので、いつのことだかわかりません。

 

そこで、卑弥呼について西暦がはっきりしている情報を、

魏志倭人伝から洗い出します。

 

146~189年 倭国大乱、長く統一君主がなかったが卑弥呼を王にたてた

238年 卑弥呼は大夫「難升米」「都市牛利」を魏に使者として送る

243年 倭王は大夫の「伊声耆」「掖邪狗」を魏に使者として送る

247年 卑弥呼は載斯と烏越を魏に使者として送る

247年~ 卑弥呼死す(100余歩の墓、100人の奴隷を生き埋め)

247年~ 男王をたてたが国は治まらず、卑弥呼の一族で13歳の女「台与」を王とした

 

あれ?

なんだかおかしいな。笑

 

というのも記紀の記述にある天皇の在位年数から逆算すると、

神武天皇は紀元前660年の人になります。

卑弥呼が天照大神だとすれば、

西暦189年に女王になったという記述と完全に矛盾します。

やっぱり神武天皇は卑弥呼よりも昔の人だったのでしょうか?

天皇がやたらと長生きなのは嘘?

恐らく、違います。

ここで記紀の編纂者は「ヤバい!」と思ったんでしょう。

つまり、魏志倭人伝で西暦189年に卑弥呼が出てきちゃってるので、

皇室の歴史が意外と浅いことがバレちゃったのです。

 

日本の皇族からすれば

日本という国は長い歴史のある伝統ある国に見せたいわけです。

中国のように紀元前から続く歴史のある国にしたいわけです。

それなのに西暦189年スタートという浅い歴史しかないのはマズイ。苦笑

 

そこで記紀では皇室の威厳を高めるために、

卑弥呼という女王は皇室には存在しないことにした可能性があります。

 

とはいえ嘘は書けないので、卑弥呼である天照大神の活躍した時代を、

敢えて神話のようにわかりにくく書いた可能性もありますよね。

読む人に「卑弥呼は天照大神ではないか」と悟られないようにするためです。

 

そのために具体的に何をしたかというと、

歴代天皇の在位年数をわざと長く書き換えたのです。

その結果として神武天皇の即位が紀元前660年になって、

卑弥呼と時代がひっくり返ってしまったのです。

 

とくに、初代天皇から欠史八代と言われる天皇たちを含め、

その後数代にわたり、やたらと長生きの天皇が多く

わざと長生きの設定にして皇室の歴史を長くした可能性があります。

 

初代神武の127歳から始まって他の長生きな天皇を挙げると、

孝昭114歳、孝安137歳、孝霊128歳、垂仁139歳、景行143歳

あの日本最大の古墳「大仙陵古墳」に埋葬された仁徳が143歳…。

これはちょっと信じられません。。。苦笑

(もしかしたら、あり得そうな微妙なラインですけどね。)

 

あと、初代から13代まで全てずっと父子継承とされていますが、

これも本当かどうか疑わしいです。

父子継承は政権が安定しているからできることで、

そうでない時は、親族や関係者が皇位継承で争って、

王位の奪い合いが起こるので在位期間は短くなるはずです。

実際、天皇の在位期間を調べればわかります。

 

つまり、在がを長く、みんな高齢で父子継承であることは、

歴史が古く権威があり、国民も健康で長生きで文化的な生活をしており、

しかも政権が安定しているように見せるための嘘ではないかと思うのです。

 

嘘と言っても魏志倭人伝の内容をあからさまに否定するわけでもないし、

卑弥呼のことを明示しない限りは矛盾しないからバレないのです。

そこまで考えていたんじゃないかなって思いますねー。笑

 

卑弥呼=天照大神以降の事実関係を確かめる

次に、卑弥呼が本当に天照大神かどうか確かめてみましょう。

 

卑弥呼には子供がおり、その名は天忍穂耳、

そして、その孫の瓊瓊杵と子孫が代々続きます。

でも、魏志倭人伝では卑弥呼は子供がいなかったと書かれています。

 

じゃ、やっぱり、卑弥呼は天照大神ではないのか?

いや、天照大神も誰かと結婚して子供を作った人ではないので、

実は記紀と魏志倭人伝の記述は一致しています。

 

記紀では天照大神は自分一人で独身で子の天忍穂耳を生んだと書かれています。

相手がいないんです。

具体的には「勾玉を噛んで吹いた息」から天忍穂耳ができたのです。

んなバカな!って話ですけど神話なので。苦笑

 

敢えて現実的に考えれば、

魏志倭人伝では卑弥呼は結婚していなくて夫がいないと書かれていますが、

子供がいないとはどこにも書かれていないので、

跡継ぎになる人物はいたのだろうと考えることもできます。

それが天忍穂耳だったのでしょう。

 

天皇一人当たりの在位期間から逆算する

とすると天照大神から神武天皇までは6代です。

割と近いですね。

この天皇家の6代って、何年くらいの期間で到達するものでしょうか。

 

例えば、古代の天皇の事例を見てみますと、

西暦507年の第26代の継体天皇の即位から、

西暦642年の第35代の皇極天皇の即位まで10代で135年です。

1代当たり13.5年ですね。

 

とすると、卑弥呼が即位したのが倭国大乱後の西暦189年ですから、

西暦270年くらいに6代後の神武天皇が即位したと仮定できます。

 

え?

ちょっとまって、おかしいよ!

その計算で行くと、平均13歳で自分の子供を作ることになるよ!?

どうなってるの?

 

違うんです、天皇は必ずしもその子供が即位するのではないです。

先ほどにも書いたのですが父子継承とは限りません。

子供じゃなくて兄弟が即位することもあれば、

親戚が中継ぎ的に即位することもあるので、

在位期間はバラバラなのです。

 

しかも古代の話となれば政権も安定してないでしょうから、

入れ替わりも激しいことが予想されるので、

一人当たりの在位期間は短くなりがちなのです。

 

このように、実際に一人の天皇が実際に在位する平均年数を足していって年代を計算すると、

卑弥呼の年代は天照大神に該当するという説があるのです。(安本説)

これによれば天皇一人当たりの在位は10年くらいが妥当らしいです。

とすると神武天皇は西暦270年くらいの即位なのです。

 

卑弥呼を年表に当てはめてみた

ちょっとわかりにくいでしょうか。

在位が10年くらいと仮定して、

ざっくりと推定の西暦を書き込んで年表にしてみましたのでご覧ください。

 

ただし、倭国大乱(146~189)、卑弥呼女王即位(189)、

卑弥呼死亡、台与女王即位(247)、および倭の五王(413~478)は、

史実通りの固定の年とします。(表中は太字の赤字で示しています)

 

推定西暦名前続柄備考&比定
146伊弉諾倭国大乱~
189天照大神卑弥呼
209天忍穂耳
229瓊瓊杵
247彦火火出見豊玉姫台与
257鸕鶿草葺不合玉依姫
初代267神武天皇
2277綏靖天皇
3287安寧天皇
4297懿徳天皇
5307孝昭天皇
6317孝安天皇
7327孝霊天皇
8337孝元天皇
9347開化天皇
10357崇神天皇
11367垂仁天皇
12377景行天皇
13387成務天皇
14397仲哀天皇
15413応神天皇
16421仁徳天皇
17430履中天皇
18438反正天皇
19443允恭天皇
20462安康天皇
21478雄略天皇
22477清寧天皇
23顕宗天皇
24仁賢天皇
25492武烈天皇

こうして卑弥呼の即位から1代10年くらいで年表をつくってみると、

25代の武烈まで、なんとなく、うまく繋がっていきますね。

さらに、人物の比定で懸案だった台与も、

彦火火出見の皇后の豊玉姫で確定かなと。

 

記紀と魏志倭人伝との対比

この年表通りで問題ないか検証するため、

出来事から順番に見てみましょう。

倭国大乱は、岩戸隠れとスサノオの追放

まず倭国大乱ですが、

天照大神とスサノオとの神話上の争いで表されていると思いました。

九州勢力の卑弥呼と、出雲勢力のスサノオの戦いですね。

 

元は卑弥呼もスサノオも兄弟または仲間でしたが、

出雲を任されていたスサノオが調子に乗った、

という筋書きなのかもしれません。

 

スサノオの悪行で天照大神が岩戸に隠れる描写も、

卑弥呼が誰とも会わず姿を現さずに政治をする様子に似ています。

そして卑弥呼が岩戸から出てきたのが女王デビューの象徴とも言えます。

それと同時にスサノオは追放され、政治の第一線から失脚するのです。

 

国譲り後も出雲とうまくいかなかった?

その後、卑弥呼の子の天忍穂耳が葦原中国(出雲)を平定します。

刺客を送っても失敗続きで、かなり苦戦しての出雲の奪取です。

 

出雲の大国主は出雲を明け渡しますが、

恐らく、まだまだ出雲には反乱分子はたくさんいたのでしょう。

卑弥呼の九州勢力も安泰ではなかったと思います。

その証拠に、天忍穂耳の子の瓊瓊杵は出雲と政略結婚をします。

出雲との関係を強固にするためですね。

 

しかし、そこで結婚相手の娘の親である、

出雲の大山祇神といざこざを起こして険悪になってしまうのです。

 

卑弥呼はこの時、南の狗奴国(=熊襲)とも争っていましたが、

運の悪いことに、トラブル続きのタイミングで卑弥呼は亡くなるのです。

 

卑弥呼が死に、出雲が「チャンスだ!」と思ったのか反乱を起こします。

しかし、瓊瓊杵の子の彦火火出見では国はまとまりません。

これが魏志倭人伝にある「卑弥呼が死んだ後の乱」ですね。

 

台与は綿津見神(海神)の豊玉姫だった

困った彦火火出見は海神族の綿津見に助けを求めます。

ちなみに綿津見神を主祭神として祭る神社が北九州にあります。

それが志賀海神社です。

 

志賀島という本州と接する当たりの地域を治める勢力なので、

もしかしたら女王国の中でもとくに、

出雲と仲が良かった国なのかもしれません。

 

彦火火出見は綿津見の娘の豊玉姫と結婚することになります。

ある意味で政略結婚なのかもしれませんね。

 

しかも、結婚後、彦火火出見は3年の間、人質に取られます

記紀では人質ではなく綿津見の国、

つまり海神族の竜宮城で3年過ごす

と書かれているのですが、現実的に見れば人質ですよね。

 

つまり、九州勢力の王が海神国の娘、豊玉姫を嫁にもらい、

かつ、3年ほど海神国に人質に取られることを条件に、

出雲勢力が納得したのかもしれませんね。

 

ここで豊玉姫の名前を見ると「とよ」の2文字が入ってますね。

つまり、これが魏志倭人伝の台与です。

しかも王が3年間いなくなるわけですから、

その間なら台与が王になったという話も成り立ちますね。

 

さあ、どうでしょうか。

これで、卑弥呼も台与も記紀に記載がある人物だったことがわかりました。

記紀の編纂者たちは、卑弥呼と台与だと気付かれないように、

とても上手に神話に隠したわけですね。

 

神武天皇は本当に存在したのか?

ここまでくると、もう一歩踏み込んでみたくなります。

それは、神武天皇は本当にいたのか?実在したか?という長年の謎です。

 

もしも邪馬台国が畿内説の言う通り「奈良」にあれば、

神武東征は作り話ってことになりますから、神武も存在しない可能性が大きい。

なぜなら、すでに奈良まで支配してるなら東征する必要がなく、

単に皇室の権威付けの為に初代「神武」が作り出されたにすぎないという理屈です。

 

でも以前の記事で、邪馬台国は九州の宮崎県日向市を比定しました。

なので、神武は東征する必要があったはずです。

しかも、確実に存在したとされる卑弥呼が天照大神であれば、

その子孫の神武も実在した確率は非常に高いと考えられます。

 

※ 神武天皇については下記のブログで少々視点を変えて考察しております。

大和が二つあった謎

とすると、大和は2つあったことになりますね。

卑弥呼の九州邪馬台国と奈良の大和です。

どちらにしても最初に書いた通り「やまと」という地名が2つあってもおかしくはないと思います。

地形から派生した地名であれば十分に複数存在することはあり得るからです。

 

でも決して記紀には邪馬台国などという言葉が出てこないのが不思議です。

天照大神の住む国は高天原とされているだけで具体的な地名はありません。

 

でも、高天原は地名という感じではないのですよ。

どちらかというと概念的な呼び方です。

例えば「天国」みたいな感じの抽象的な場所として文中で使われているように思います。

 

なので実際の地名は邪馬台(やまと)でしたが、

それだと記紀編纂当時の大和と重複するので高天原と読んだのかもしれませんし、

あと、一番重要なことは卑弥呼とバレないように神話化するため、

高天原という呼び名で通したのかもしれませんね。

 

となると、やはり神話の舞台はずっと九州であり、

神武は東征で初めて大和へ向かったと考えるのが自然ですね。

 

 

さて、いかがでしたでしょうか。

結局、日本の古代史を研究するにあたって、

戦後の日本古代史の研究者は天皇制への反省から、

あまりに神格化され過ぎた天皇という存在は、

断固として拒否したい衝動に駆られたのでしょうね。

 

神のような存在に書かれているものは作り話にしておかないと、

再び太平洋戦争のような惨事を引き起こすもとになりかねません・・・。

 

でも今は時代も変わりました。

そういった逆に偏ったフェアでない研究は見直されつつあります。

文献が残っているのですから、

天照大神も神武天皇も、欠史八代も、すべて存在すしたと考えるのが自然です。

教科書もすべて捨てて原典に接し偏見のない状態で再び歴史を探求してみると、

今後ももっとたくさんの新たな発見があるかもしれませんね。

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