邪馬台国は日向市に決まりました(笑)

邪馬台国論争というのがありまして。

偉い学者の方々が、あーでもない、こーでもないと、

邪馬台国がどこにあったかを大昔から論じてらっしゃいます。

 

思うに、そもそも邪馬台国は「やまとのくに」と読むのが正しいと思われます。

「やまたいこく」などと当て字をそのまま読むので「どこやねん?」

と無駄に謎が深まるのでありまして、

本当はその名前通り「やまと=奈良あたり」にあったに違いありません。

 

でも、邪馬台国を記した魏志倭人伝を読むと、

どのように方角と距離で順にたどっても奈良に到達しないのです。苦笑

なぜだ!?

 

それが長年解決しない邪馬台国論争の所以であります。。。

 

というように今日は、邪馬台国論争が長らく解決しないので、

自分なりの結論を勝手に導きますので、

ぜひ皆さん一緒に自己満足しましょう!

 

昔の日本人は何も残してない

ところで邪馬台国という字面は日本の古典には出てきません。(多分)

邪馬台国の文字は中国の書物に出てくるのみです。

一番古くて有名なのは前述の教科書にも出てくる三国志の魏志倭人伝です。

西暦280年頃に書かれたとされております。

 

一方そのころ、日本では何があったかというと、

西暦280年の日本は空白の4世紀(266-413年)と言われており、

歴史的に何があったか記録が何も残ってらしいのです。。。

 

メモくらい残しといてほしいですよね。

 

しかも、空白の4世紀というのは、

中国の歴史書に日本の記述が無いから空白と呼ばれているのであって、

日本の書物は、そもそも最初から何も残されていません。

もう昔の日本ダメダメです。笑

 

なので、この時代のことを探ろうとしたら、

まずは中国の文献を読んで、

そこから推測するしかないということになるのです。

じゃあ、まあ、読んでみましょうか。

 

魏志倭人伝以外にも倭のことを書いた本がある

さっそく有名な魏志倭人伝を読んでみましょう。

教科書では名前しか出てきませんから、

実際に本文を読んだことがある人は少ないはずです。

 

でも、色々調べると、日本のことを書いたのは魏志倭人伝だけでなく、

後漢書の東夷伝という古書もあるようです。

 

後漢、漢といえば、キングダムで有名な中華統一王朝「秦」の次にできた王朝です。

しかも紀元前200年という恐ろしいほど昔にできた国ですから、

魏志倭人伝よりも古いじゃないか!

と思いきや、後漢書の東夷伝は漢が滅びて宋という国の時に書かれたらしく、

魏志倭人伝の方が古いみたい。(なんかよくわかりません…)

 

しかも、他にも当時の日本のことを書いた中国の書物は、

宋書などたくさんあるみたいなので、こうなったら、

それらをまとめて読むしかないですね。(めんどくさ!)

 

ちなみに、その時の日本は「倭」という国名で紹介されてます。

まずは「基になる情報」として、

そこに書かれている西暦200年頃の日本についてざっとまとめてみました。

邪馬台国を比定する情報になりそうなものは赤字にしました。

 

倭国の生活・風習

裸足で生活

酒が好き

節度がある

長生きが多い(100歳以上も普通)

生野菜を食べていた

人口は女性が多い

有力者には4,5人の妻がいて、一般人でも2,3人の妻がいる

男は顔や体に入れ墨(模様や位置で身分を示す)をしていた

元々は入れ墨でサメや水取りを追い払うためだった

女は顔を朱色に塗っていた

男は木綿の鉢巻をしていた

飲み食いは箸を使わず手づかみ

犯罪は少ない

偉い人の前では蹲踞の姿勢(そんきょ、しゃがむ)

動物の骨を焼いて占いをしている

占いより神がかり(霊能者)を信じやすい性質

航海時は人身御供を一人連れ持衰させ成功したら褒美、失敗したら殺す

家族が死んだら十数日安置し、家族は断食、親族は遺体の傍で歌い踊る

衣服は男女とも布一枚

距離を「里」で計ることを知らず日数で測った

倭国の環境

温暖な気候で、冬でも野菜が採れ

稲、麻、養蚕をし、絹の布を織っていた

牛、馬、鵲は存在しなかった

倭国の制度

法を犯したものは奴隷にする

大罪を犯したものは家族全員死罪

女王国から北の地は、伊都国に一人の統率者を置き諸国を取り締まっていた

諸国はその統率者を恐れていた

そこでは外国からの荷物は厳しくチェックされ女王国に送られた。

女王国への荷物に不足や食い違いは許されなかった

倭国の位置

※ 対馬から壱岐まで1000里としてるので1里は短里の約70m(0.07km)と仮定する

倭国は韓の東南方の大海中にある

倭国は中国浙江省の東方にある

倭の奴国は倭国の一番南の地である(卑弥呼の前の時代?)

末廬国(4000戸)から陸路で東南に500里(25km)で伊都国

伊都国(1000戸)から東南に100里(5km)で奴国

奴国(20000戸)から東に100里(5km)で不彌国

不彌国(1000戸)から南の方に船で20日行くと投馬国

投馬国(50000戸)から南の方に船で10日、陸をひと月行くと邪馬台国

女王国(70000戸)の東に海を1000里(50km)渡ると狗奴国

女王国or奴国の南に狗奴国がある

狗奴国は倭人の国だが女王国に服属していない

女王国の4000里(200km)ほど南に侏儒国があり身長はみな1m程度の小人

女王国から海を渡り1000里ほど東に倭種の国があり、その(女王国のor倭種の国の)南が侏儒国である

侏儒国から東南に海路1年で裸国、黒歯国がある(中国使者の往来する最遠地)

邪馬台(やまと)に都をおく

筑紫国の東に秦王国があり中国人が住んでいた。夷州と推測された。

夷州、澶州は、会稽(中国浙江省)の海の彼方にある

遭難して澶州にたどり着いた会稽(中国浙江省)の者もいる

夷州、澶州は遠すぎて行き来できない

秦の始皇帝は徐福を澶州へ派遣して仙人を探させたが見つからなかった

徐福は、澶州にとどまり子孫を増やした

倭国の歴史

紀元前108年 倭国には100国余りの小国(首長は王と名乗る)があり、うち30国が漢に使者を送った

57年 倭の奴国が後漢の光武帝に使者(使者は自らを「大夫」と名乗った)

107年 倭国王「帥升」が安帝に使者

146~189年 倭国大乱、長く統一君主がなかったが卑弥呼を王にたてた

238年 卑弥呼は大夫「難升米」「都市牛利」を魏に使者として送る

243年 倭王は大夫の「伊声耆」「掖邪狗」を魏に使者として送る

247年 卑弥呼は載斯と烏越を魏に使者として送る

247年~ 卑弥呼死す(100余歩の墓、100人の奴隷を生き埋め)

247年~ 男王をたてたが国は治まらず、卑弥呼の一族で13歳の女「台与」を王とした

266年 空白の4世紀

413年 空白の4世紀

421年 倭国の王「讃」が宋に使者を送る

438年 倭国の王「珍」が宋に使者を送る(讃の弟)

443年 倭国の王「済」が宋に使者を送る

462年 倭国の王「興」が宋に使者を送る(済の子)

478年 倭国の王「武」が宋に使者を送る(興の弟)

倭国の人物・卑弥呼

卑弥呼は結婚しなかった

卑弥呼は神がかりになり託宣した

卑弥呼には侍女が千人ほどいた

卑弥呼には弟がいて国政を補佐していた

卑弥呼には1(2)人だけ世話係の男子がいて卑弥呼の言葉を皆に伝えた

卑弥呼の宮殿、物見櫓、砦は武器を持った者に守られていた

初代、天御中主から彦瀲までの32代いずれも尊と呼ばれ、筑紫城に住んだ。

彦瀲の子の神武が立ち、天皇と名乗り都を大和に移した

 

邪馬台国はどこにあるのか

さて、ざっと古典を読んできましたところ、

邪馬台国の位置が判明しました。(はやっ!)

それは宮崎県の日向市あたりです。笑

上にざっと挙げた条件に当てはまるところを選んでいくと、

上の地図のようになるんですよね。苦笑

 

もちろん「東南」方向が地理的におかしいのは良く知られた謎ですが、

東の位置は日が昇る位置つまり季節によって間違いやすいという説を採用し、

使者は夏に来たものと考え、東南は東に寄りがちとして考えてます。

ただし南は南です。

細かく説明していきます。

 

邪馬台国畿内説を否定する理由

多分、世の中は邪馬台国畿内説が優勢だと思うのです。

というのも卑弥呼の墓と否定される箸墓古墳は奈良県にありますし、

なにより「邪馬台国」=「やまとこく」と読むのが普通であれば、

「やまと」といえば大和であり奈良県です。

 

ちなみに邪馬台国畿内説によれば、投馬国は出雲国に比定されます。

「つまこく」≒「いづもこく」なんとなく似てます。

舟で20日くらいかなと思いますしね。

そしてそこからさらに舟で10日で「敦賀」辺りまで来て、

そこから陸路で1ヶ月かけて大和盆地まで進んで大和にたどり着きます。

なんとなく距離的にあいます。

 

でも、おかしいのは魏志倭人伝の記述では、

不彌国から船で南に20日で投馬国、船で南に10日そして陸を1ヶ月で女王国と書かれているのです。

地図で見る限り明らかに出雲や奈良はです。

方角が全然違うのです。

夏で日の出の位置が北寄りになっても東は北寄りになりますが南は変わらず南です。

 

しかも、女王国から東に海を渡り1000里(50km)の位置に狗奴国と書かれています。

ということは、女王国の東は海に面していると考えるのが普通ですが、

でも奈良盆地には周りに山さえあれど海はありません。

せいぜい東側を伊勢志摩あたりと妥協して解釈すれば愛知県、

つまり尾張や三河あたりの勢力を狗奴国に比定できるかもしれませんが無理があります。

 

さらに、女王国の南へ4000里(200km)に侏儒国という、

小人(こびと)の国があると書かれています。

奈良盆地の南方200kmあたりの海上に島なんてありません。

色々と矛盾が出てくるのです。

 

同様に、投馬国を丹波に比定する説も、

最終的に邪馬台国を大和盆地に比定するのであれば、

上記と同じ矛盾が出ますので間違いということになります。

 

邪馬台国九州説・投馬国はどこにあるのか?

となると、やはり邪馬台国は九州にあったとするのが妥当だと思いました。

まず、不彌国から南へ20日で投馬国の部分から見てみましょう。

 

5万戸の投馬国は2万戸の奴国よりも大きいです。

九州で奴国(福岡市)よりも南で広い平野がある場所は、

佐賀平野か熊本平野か宮崎平野です。

このどれかが投馬国だと思われます。

 

恐らく、投馬国=つまこく=くまこく=球磨国(熊本県球磨郡)と名前も似ているので、

熊本ではないかなと思うんですよね。

 

しかし、不彌国(福岡市)から投馬国(熊本市)まで行くのに船で20日が謎です。

そこで思いついたのが、ぐるっと長崎あたりを周る舟ルートです。

これなら20日くらいかかるとしても妥当です。

もちろん、陸から行くショートカットのルートもあると思うのですが、

そのルートは中国人などの外国人には伏せられており、

教えてもらえなかったと考えられます。

 

それに、そもそも、外国からの使者は女王に会ったことはないと思うのです。

女王国は警備が厳重と書かれてますし、

女王国への貢物も伊都国で中身や分量をきっちりチェックしてから運ばれたと書かれています。

 

当時の日本にしては、かなりキッチリしていたと考えられます。

実際、倭国大乱をやっとまとめた女王ですし、かつてない大切な倭国の王です。

しかも神がかりを起こす、すごい能力を持った王です。

そのような大切な女王の国への最短ルートを、

中国人使者に教えることはないと思うのです。

 

その証拠に、中国人であれば「里」を使って距離を表すはずなのに、

投馬国への距離だけ20日としています。

これはつまり、中国人使者は距離を倭人に聞いただけなのです。

実際「倭人は「里」で距離を測るすべを知らない」と書かれていますから、

「20日」と答えたのは倭人であり、

中国人使者はそれを鵜呑みにしただけなのです。

 

女王国へ南へ水行10日陸行1ヶ月の解釈

次は投馬国から女王国(邪馬台国)までのルートです。

これも、投馬国から南へ向かうと書かれてますから、

投馬国=熊本平野よりも南にある平野は宮崎平野くらいしかありません。

 

でも熊本平野から宮崎平野まで行くのには、

九州山地という高い壁があるので昔の人は簡単には進めません。

であれば、船で鹿児島をぐるっと周ればいいのですが、

鹿児島には狗奴国があるので危険で通れません。

貢物を船で運んでいたら横取りされかねませんしね。

 

そこで、狗奴国の手前の阿久根市あたりで船を降りて、

そこから内陸の「えびの市」あたりを経由して宮崎平野に進むのです。

そうすれば、船で10日、陸で1ヶ月の謎が解けます。

陸で1ヶ月は時間がかかり過ぎな気がしますが、

そこは倭人のざっくりした感覚と、

外国人向けに女王国が遠くにあることを示したかった意図もあるのかなと思います。

 

ちなみに日向市は日本一日照量が多い土地らしいので、

宮崎平野というよりも、その北の日向市付近に女王の本拠地を比定しました。笑

 

実際、女王国の東に海を渡り1000里(50km)の場所に倭人の別の国があると書かれており、

日向市から東には四国がありますのでピッタリと合致します。

まあ大分あたりでもOKかなと思いましたけどね。

7万戸くらいのキャパはあるでしょうし。

 

ちなみに、女王国の南へ4000里(200km~)で侏儒国(こびとの国)があると書かれており、

実際に宮崎平野から南に行くと種子島があります。

種子島の広田遺跡では当時の平均よりも10cmくらい低身長の人骨が発掘されており、

これが小人の国といわれる所以かと考えられます。

広田人は、身長が成人男性で平均約154㎝、女性で平均約143㎝しかなく、同じ頃の北部九州の弥生人(成人男性で平均約163㎝、女性で平均約152㎝)と比べても、極めて身長が低い人々であることがわかりました。

このように邪馬台国を宮崎平野(または大分辺り)と比定すると、

魏志倭人伝の記述といろいろと符合するのです。

 

長門ルート(関門海峡)は存在しなかった

ちなみに大分や日向市あたりに向かうのならば、

関門海峡を通れば早いと思うのですが、

卑弥呼の時代は恐らくまだ開通してなかったみたいなんですよね。

下の引用の通り、神功皇后が開通させたとのこと。

穴門・穴戸(あなと)は関門海峡のことであり7世紀に穴戸国が設置され、7世紀後半には長門国と改めた。関門海峡は元々陸続きであった。

本居宣長(1730年-1801年)の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。
それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。

卑弥呼の時代にここを開通させなかったのは、

恐らく不便を感じなかったからではないかと思います。

むしろ外国との貿易は伊都国で一括管理すれば女王国で独占できます。

 

逆に、奈良県の大和が都になったからこそ、

九州勢力に独占させまいとして、

神功皇后が長門を開通させたのかもしれません。

 

 

女王の敵国「狗奴国」は鹿児島と四国

ちなみに、先ほどさらっと流してしまいましたが、

僕は狗奴国を鹿児島に比定しています。

 

理由としては名前が似ていること。

つまり、狗奴国=くな=熊=熊襲ですね。

でも、名前だけなら投馬国=つま=球磨ですからどっちも同じです。

 

ところが、魏志倭人伝の記述を見ますと、

狗奴国は奴国または女王国の南にあると書かれています。

宮崎県よりも南となると、もう鹿児島県しか残ってませんね。

 

ただし、女王国から東に1000里(50km)海を渡ると狗奴国という記述もあり、

そこがなんとも謎だったのですが、

恐らく四国の一部も狗奴国だったのだと思われます。

狗奴国の領土が鹿児島県だけとは限りませんからね。

 

魏志倭人伝では卑弥呼は狗奴国が大嫌いで常に争っていたとありますが、

もしかしたら、邪馬台国が狗奴国の土地を奪ったのかもしれません。

それゆえに狗奴国が九州南部と四国に分かれてしまったかもしれません。

逆に邪馬台国は狗奴国を吸収したいと思っていたので、敢えて危険な狗奴国と接する地域に、

卑弥呼の本体である邪馬台国の大軍隊を配置したのではないかと思うのです。

 

「やまと」は山の扉?

ここまで書いてふと思ったのは、長門(ながと)にしろ穴戸(あなと)にしろ、

あと邪馬台(やまと)にしろ、さいごに「と」がつく地名って日本に多いですよね。

 

「やまと」については山門と書いて「やまと」と読む地名が九州北部にありまして、

これが邪馬台国北九州説の根拠にもなっています。

 

それよりも、この「と」「戸」がついた地名をあげますと、

青森にも八戸とか五戸とか、東京は江戸、青砥とか亀戸、

千葉には松戸、茨城の水戸、埼玉の坂戸など。

けっこうたくさんあります。

 

一説に「戸」が付く地名は地震が起きやすいと言う伝説があるそうです。

確かに青森東方沖、関東直下、千葉県北東部など大きな地震は来ますが、

「戸」がつかない地名でも地震は起きますから、ちょっと違うかなと。

 

するとまた一説に「戸」の付く地名には「龍脈」が流れているとも昔の人は言ったようで、

龍脈とはつまり断層の可能性もありますが、陰陽道的には聖なる土地とも言われます。

それゆえ、汚してはならない土地ともいえます。

 

そういう特殊な場所を神がかりで探し当てて、

卑弥呼が本拠地にした可能性はあるなと思ったのです。

 

また、「と」は「戸」であり「扉」の意味もあります。

であれば龍脈の出入り口という考え方もできますね。

 

そういえば天照大御神が隠れていた「岩戸」も「戸」がつきます。

そしてそれは、岩の扉です。

岩の扉を現実にあるものとして考えると、

もしかしたら山の扉という意味だったのかもしれません。

それはつまり「やまと」ですね。

 

卑弥呼が本拠地を構えたのが山に囲まれた場所の出入り口のあたりなので、

「やまと」と名付けたのかもしれません。

しかも、そこは外敵から岩のように固く防御されていたため、

「岩戸」と呼ばれた、なんてこともあるかもしれません。笑

 

ちなみに、日向市の海岸沿いの大御神社に「日向のお伊勢様」として天照大神が祭られています

そして、そこには君が代にも歌われている「さざれ石」もあり、しかも日本最大級とされています。

さらに柱状節理など古代人から見たら不思議な自然物もたくさんあります。

こういった神秘的な場所に卑弥呼は魅かれたのかもしれません。

 

大和朝廷との連続性はあるのか?

ところで、卑弥呼の邪馬台国は、

そのまま大和朝廷に繋がっているのでしょうか?

そこはまだ自分の中でモヤモヤしている部分ではあります。

ていうか、まだ調査中です。

※ 昔は卑弥呼は神功皇后かと思ってましたが、どうも違うようです。

 

でも、魏志倭人伝を読む限り、小さな国が30国ほどあって、

それらが個別に中国に貢物を送っていたと書かれており、

紀元前から日本には30も有力な国があったことになります。

とすると、本当に卑弥呼の邪馬台国が大和朝廷なのか、

もしや他の有力な国が大和朝廷を築いたのではないかと疑うわけです。

 

先ほど書いたように「やまと」という地名は、

山に囲まれた場所の出入り口付近を意味するなら、

奈良県の奈良盆地も地形的に「やまと」ですよね。

なので、卑弥呼とは別の権力者が単に奈良で権力を握ったので、

大和朝廷という名前になっただけなのかもしれません。

 

でも、卑弥呼の邪馬台国の本拠地が宮崎県辺りであれば、

神武の東征神話の出発点とも重なりますから大和朝廷の前身である可能性も高いです。

宋書等にも神武の親までは筑紫城あるいは筑紫の日向宮に住んでいたが、

神武が権力を握って奈良に移ったと書かれてます。

その辺りはもう少し調べてみたいですけどね。

 

というわけで、邪馬台国「日向市」説。

けっこうイケてると思うんですが、どうでしょうか?

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