古代千葉に忌部氏がやってきてピラミッドを建てた?

あまり有名でない話ではありますが、

千葉の南房総には隠れたすごい神話があるのです。

神話と言うより、古くから伝わる伝承、

いや、状況証拠的に考えると実話かもしれません。

 

それは、四国の「阿波」地方の忌部氏という古代氏族が、

黒潮に乗って千葉にやってきたという話です。

その証拠に、千葉の「安房」地方は「阿波」と同じ読みです。

また忌部氏は日本の基礎を作った氏族ではないかという説もあります。

今日は、そんな古代の謎解きの話です。

 

安房神社は洲崎神社とワンセット

僕は昔から安房神社が好きでして、

なんとなく落ち着くというか清々しい気持ちになる場所なので、

毎年お正月には安房神社まで初詣に行きます。

 

たまに、安房神社と、その近くにある洲崎神社にも参拝に行くのですが、

今年は安房神社に行った後、セットで参拝しました。笑

ていうか、安房神社と洲崎神社は本当にワンセットなんです。

なぜなら、安房神社の祭神の后が洲崎神社の祭神だからです。

この2つの神社は夫婦なんです。

それはさておき、安房神社の祭神は天太玉命(アメノフトダマノミコト、以下フトダマ)ですが、

フトダマは古事記などの神話に登城する神様です。

アマテラスオオミカミの孫のニニギノミコトが日本にやってくる時、

それを守護した5人の神様のうちの1人とされています。

 

そして、フトダマの孫が天富命(アメノトミノミコト)という人らしいのですが、

この人が千葉県の南房総=安房地方を開拓したとされており、

この安房神社を建てたのが天富命であり忌部氏であるとされているのです。

 

千葉県民は四国からやってきた説は嘘か本当か?

では、その天富命は何者かというと、

もともとは四国は徳島県、阿波の人だったのです。

※ 南海道(四国と紀伊半島の先端部分)の人とした方が適当かもしれませんが。

 

西暦800年に書かれた「古語拾遺」という古代の書物(歴史書)があるのですが、

それによれば天富命は、四国:阿波の国よりもさらに良い土地を求めて、

千葉は南房総へ忌部氏という氏族を従えてやってきたと書かれています。

その時に自らがもともと住んでいた「阿波」の地にちなんで、

「安房」と同じ読み仮名の地名を付けたそうなのです。

ただし、これには反論があって、天富命が四国から千葉にやってきたのは、

創作だという人もいるのです。

史実として安房地方には膳大伴部という氏族が広く支配しており、

忌部氏の形跡はないというのがその主張です。

さらに、古語拾遺自体が忌部氏の書いた書物であることから、

自分たちに都合の良いように、

「おれたちは南房総にも昔から勢力があったんだー」

みたいに書いたのだろうという主張です。

 

徳島と千葉、同じアワの共通点

とはいえ、調べてみると反証になる材料はとてもたくさんあります。

 

例えば、天富命と忌部氏はニギハヤヒに仕えたと古語拾遺に書かれていますが、

反論の中にあった南房総に昔からいたという膳大伴部の祖先を調べると天穂日命という出雲系の神なんですよね。

ニギハヤヒも土着系:出雲系なので両者は同じ系統なのです。

 

であれば、仮に膳大伴部が南房総、安房の国造であったとしても、

忌部氏がそこへ入ってきて同化したと考えることもできます。

実際、忌部氏は祭祀やモノの製造が専門の氏族ですから、

政治的・支配的な活動はしなかったのかもしれません。

逆に、もしも忌部氏が先に来ていたとしても、

あとから来た膳大伴部が天富命の一族を排除し、

残った忌部らを取り仕切ることになったかもしれませんので、

現在の千葉に忌部の痕跡が無いからと言って、

存在すら否定するのは無理があります。

また、なぜに四国から房総半島へやってくる必要があるのか?

という反論もあるようなのですが、

当時、黒潮に乗った海路も存在したことから、

太平洋側を船で出れば勝手に房総半島までたどり着くわけで、

であれば理由も何も、まさに自然の流れだったと言えます。

 

さらに、忌部氏のいた徳島には勝浦という地名がありますが、南房総にもあります。

また同じく忌部氏のいた和歌山県には白浜という地名がありますが、やはり南房総にもあります。

もちろん、アワという地名もそうであるように、

多くの似たような地名が両者に存在することから、

やはり南房総が忌部氏に所縁がある可能性は否定できません。

 

他にも、安房神社以外にも忌部氏を祖とした社伝の残る神社も南房総に多々あることから、

忌部氏と南房総とのつながりを完全否定するには、少々無理があるかと感じます。

 

忌部氏とは何者か?

さて、はるか昔に四国から南房総にやってきたとされる天富命と忌部氏。

ところで彼らはそもそも何者でしょうか?

 

なんと天富命は神武天皇の橿原宮を造営した人だったのです。

その際に部下として忌部という部民を使役したようです。

部民というのは大和朝廷の制度上の役割の名前です。

役所で言うと「道路課」みたいな。笑

 

忌部以外にも語部とか馬飼部とか、いろんな「部」がありました。

つまり、個人の名前というよりも大和朝廷における役割的・職業的な名称です。

その部下の忌部には出雲忌部、紀伊忌部、阿波忌部、讃岐忌部などがいて、

さらに、伊勢や筑紫にも忌部がいたようです。

各地にいる忌部らは、木材を調達したり、社を作ったり、神宝、盾などを作ったり、

主に製造業的な役割をした技術集団だったようです。

 

その各地の忌部を率いているのが天富命で、

それが安房に来て南房総を開拓したのです。

たしかに、それだけの技術があれば開拓という表現がぴったりの活躍ができそうですね。

 

その後、天富命のような各地の忌部を率いるボスの役割の人が、

職業名の忌部をそのまま取って「忌部氏」と名乗るようになったようです。

 

中臣氏とケンカした忌部氏

その忌部氏ですが、天富命が神武天皇の橿原神宮を造営したと同時に、

祭祀などを司る役割もあったようです。

 

同様に、祭祀の役割には歴史上でも有名な中臣氏がいます。

昔から朝廷の祭祀は、中臣氏と忌部氏が取り仕切っていたようなのです。

ところが、その中臣氏の氏族の中から藤原氏が出てきて、

中臣氏が勢力を強めると、中臣氏が祭祀を独占するようになり、

そのうち朝廷の祭祀から忌部氏は消えていきます。

 

ちなみに中臣氏の祖は天児屋命です。

天児屋命から中臣氏までの流れがよくわかりませんが、

忌部氏の祖の天富命はニギハヤヒに仕えたとありますので、

結果として出雲系の忌部氏よりも天孫系の中臣氏を優先した、

という大きな流れがあるのかもしれません。

まさに歴史の中に消えていった氏族なのです。

 

忌部氏が日本の原型を作った?

ところで忌部氏は謎の多い氏族で、

いろんな歴史作家の皆さんが面白い説を発表しています。

 

例えば忌部氏がもともといた南海道、つまり四国や紀伊半島の南部辺りは、

淡路島を中心として古事記の国生み神話の発祥の地です。

とくに淡路島の隣にある小さな島「沼島」は古事記のおのころ島のモデルだと言われています。

 

忌部氏は日本の国の発祥の場所にいたということは、

もともと古くから日本にいたのは忌部氏なのでは?

忌部氏こそ日本人の祖先なのでは?なんて説もあったりします。

でも「忌部氏が日本の原型を作った」という話は、

説というよりも、まさに史実ではないかと思います。

先ほども書きましたが、実際に忌部氏は家の建築から、

祭祀具、武器などの製造をする、モノづくり集団だったのです。

 

しかも日本全国にいたとされていますので、

相当古くから日本の国造りを組織的に担っていたと思うのです。

今も昔も日本がモノづくりの国であることは、

忌部氏のDNAを引き継ぐ日本人からして、

自然のことだったのかもしれません。

 

忌部氏が日本でピラミッドを建てた?

あと、もうひとつ面白い説があります。

それは、忌部氏の先祖は、

ピラミッドを始めて作ったといわれる、

エジプトの神官であり宰相のイムホテプだったのではないかという説です。

かなりぶっ飛んでますので、にわかに信じがたいですが。。。苦笑

 

その根拠は、まず名前が似ているという点です。

名前というのは地名も含めて、深い意味もなくただ引き継がれるものです。

忌部のイムとい部分も語源がなんだかわかりませんし、

それをイムホテプが由来というなら可能性としてはあり得るかもしれません。苦笑

 

また、イムホテプは建築家でもあったと言われています。

忌部氏も橿原の宮を造営したことから建築を得意としていますから、

ここにも共通点が見つかります。

 

さらに、忌部氏が千葉県に建造した龍角寺岩屋古墳は、

日本最大級の方墳です。

方墳とは上から見ると正方形の古墳のことですが、

これぞまさにピラミッドである!という主張ですね。

 

とはいえ、忌部氏が本拠地の吉野川流域に作った古墳は、

円墳ですし、たまたま方墳を作ったというだけで、

ピラミッドだというのは少し無理があります。

なので、忌部氏=イムホテプ説はちょっと弱いかなって思っています。笑

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