千葉県民のルーツを探ってみた!

今日は、千葉県民のルーツってどこ?という歴史の話です。

歴史とは言っても、こういうルーツ的な話って、

ある意味センシティブで触れにくい話なんですが、

まあ、大意はありませんのでご了承ください。苦笑

 

ちなみに先日、僕の父が亡くなりまして、遺産相続の手続きで父の戸籍を取得したんです。

戸籍と言っても、驚いたことに明治時代からの代々のものでして、

もちろん、会ったこともない、話を聞いたこともない、はるか昔の先祖の名前が出てきたわけです。

すると驚くことに、

何代か前のご先祖に、突然1代だけ「千葉県」の住所が出てきたんですよね。。。

そしてその後の世代はまた愛知県に戻っているのです。

元々「千葉」につながりがあったのか、それとも、配偶者が千葉につながりがあったのか、

まったくわかりません。

謎です。。。苦笑

なにかしら千葉に縁があるのかもしれませんね。。。

しかし、歴史って面白いなあって思いましたね。

というわけで、以下、本題をどうぞ。

 

日本人はどこから来たのか?

非常によくある話題から入りましょう。

日本人はどこから来たのか?

今までの自分が読んだ本とかの浅い知識ですが、だいたいこんな感じかなって思っています。

恐らくこういうルートで日本列島にやってくると思うのです。

 

でも、こうして見ると、かなり色んな人種の人がやってきていますよね。

実際、自分の周りにいる人の顔を見ても、西洋人っぽい人、南方系っぽい人、

たくさんいますよね。

ていうか、たまにアフリカ系の人もいますよね。

 

昔、自分の周りにも、習近平にそっくりな顔したクライアントさんもいましたし、

韓国の文在寅にそっくりな知り合いのベトナムのエンジニアさんもいますし、

ぼくも南方系の顔だと言われることがよくありますし。笑

まあ、いろんな人種が混ざってるのが日本人であります。

 

日本の原住民はいたのか?

さて、これだけたくさんの流入があったとすれば、

誰が一番最初に日本にいたか?って話です。

最初というと、やっぱり「縄文時代」ということになるんでしょうか。

 

ここで、注目するのが地名です。

とくに北海道はアイヌ語の地名が多いので、アイヌ系の人たちが住んでいたと思うのです。

東北地方もそうですね、アイヌ語の地名が多いのでアイヌ系の人が多かったでしょう。

関東以西になるとアイヌ語地名のデータが少なくなりますが、

でも例えば長野県の「浅間山」は、

アイヌ語の「アソオマイ(火を噴く山)」が語源だという説もありますし、

熊本の阿蘇山も「浅間山」「アソオマイ」に言葉的に似てますよね。

と、探せば本州全域にアイヌ語由来だとしても不思議ではない地名は多いようです。

 

(参考)アイヌ語由来の地名

 

まあ、関東以西の地名がアイヌ語だなんて「こじつけ」だという人もいますが、

そもそもそれも「説」ですし可能性は否定できませんし、

アイヌの人たちがどんどん北へ追いやられた経緯を考えると、

長く住んだところは地名も残りやすいですし、

それを考えると西の方は早々に追いやられてしまったゆえに、

地名の名残が消えてしまったとも言えますからね。

そこから考えると、日本は元々アイヌ系の人たちが多かったのかなと思うんですよね。

あと、図には書きませんでしたが、遥々と南米から北米を通り、

ベーリング海峡を渡って環太平洋をぐるっと回って日本に来た人たちとかね。

実際、ペルーとかの人って、アジア系っぽいですよね。

アメリカ原住民もアジアっぽいですし、イヌイットやエスキモー、アラスカの原住民もアジア系です。

不思議なことに、環太平洋でぐるっと人種的につながっているんですよねー。

 

縄文の主役はアイヌ系、徐々に大陸系と混血?

さて、もともとは、アイヌ系の人たちが多かったと推測される日本列島。

そして、おそらくアイヌ系の人たちが縄文時代の担い手=主役だったと思うのです。

そして縄文の頃は「外敵」を気にする必要がないほど平和だったとされています。

 

しかし、弥生時代の遺跡には突如として外敵を意識した工夫がみられるようになります。

実際、佐賀県の吉野ケ里遺跡は外敵からの防御のための堀だとか武器だとか見つかっているそうです。

これはやはり、佐賀県辺りは対馬を経由して朝鮮半島から大陸の人たちがやってくるからでしょう。

 

当然、九州北部から異民族が来れば、争いもあれば融和もあり、混血の人も増えてくると思います。

すると、どんどん新しい文化や考え方も入ってくることになりますよね。

とはいえ、昔の中国の歴史書で、邪馬台国の記述を読むと、

倭(日本)人は体に「入れ墨」を入れていたとあります。

 

ちなみに、「入れ墨」は今みたいな極道系とは何の関係もなく、

漁をする際にサメなどから身を守ったり、

魚を食べてしまう鳥を寄せ付けないために体に模様を付けていたようです。

 

なので、弥生時代といえども、人種的な中心はアイヌ系であり、

生活なんかも縄文チックだったんだろうなとは思います。

徐々に、縄文系から弥生系の生活に変化していったんでしょうね。

 

南北に追いやられるアイヌ系の人々?

さて、そのような緩い融和が続いた後、

恐らく、あるタイミングで大陸からの移住者たちによって、勢力図が書き換えられます。

九州北部からの勢力が大阪あたりまで勢力を広げ、

ついには本州を支配してしまいます。

ざっくりと、だいたい下の図の青い線の感じでしょうか?

ちなみに関西(奈良)までの進出ルートは、いわゆる神武(天皇)東征のルートです。

 

ところで、都市伝説としてよく出てくる「日ユ同祖論」という説があります。

縄文の時代を一歩進めて新たな文明をもたらしたのは、ユダヤ人であるという説です。

実際、その可能性は否定できなくもなく、皇室もユダヤ系だという説もありますね。

つまりユダヤ系の神武天皇の勢力が、日本を支配したという流れです。

さあ、どうなんでしょうね?笑

 

まあ、シルクロード経由で中東や西洋の人たちが日本にやってくるのは珍しくはありませんからね。

インドの王様(部族)がやってきて文化をもたらしたという昔話も日本の各地にありますしね。

そもそも縄文の人たちは武器を持たなかったとすれば、

西洋の文明人が日本にやってきて日本の原住民を懐柔する事くらい、たやすいなと思ったりもします。

 

日本人は「太白の末裔」の謎

ところで、弥生時代には、純粋なアイヌ系と、

大陸からの混血系の2つの流れがあったのかなと推測してます。

そして大陸からの混血系もさらに2種類あったのではないかと思うのです。

 

というのも、中国の歴史書では

『倭人(日本人)は、自らを「太白の末裔」と称している』

と書かれているのです。

なんで日本人の祖先が中国人なんでしょうね?

 

でもそれが事実としたら、

「太白の時代、つまり紀元前1000年くらいに日本に渡ってきた人たちがいた」

と考えられるのです。

 

太白とは周王朝の人物で、呉(中国)の祖とされている人です。

その太白の一族が集団でやってきて日本の原住民と混血し、

比較的平和に暮らしたのが弥生時代の始まりではないかと思われます。

 

ちなみに、中国の殷、周、秦、漢などの時代は、

現在の中国とは人種的に異なっていたという説があります。

太古の中国はシルクロード経由で西からやってきた人たちが建国したというのです。

ユダヤ人なのかもしれないし、それは謎ですが。

そして、その人たちこそが中国に多大な文化的な貢献をした漢民族と呼ばれる人たちなのです。

しかし、純粋な意味での漢民族国家は、

モンゴル帝国に駆逐されてしまい既に中国には存在せず、

実は「太白の末裔」である日本人が、

本当の漢民族の末裔だというのです。

これは、なかなか、面白い話ですね。

 

弥生系大陸系の2つの勢力と「国譲り神話」

その「太白の末裔」が日本に来たのは紀元前1000年くらいです。

彼らは日本の原住民と全体的に融和し、数百年ほど平和に豊かに暮らしたことが推測されます。

そして、それが出雲の国だったと思うのです。

 

ちなみに、出雲=中国地方(山陰)の人と東北の人は同じズーズー弁を話すとされてます。

この2つの地域の言葉は距離的に離れているのに非常に似ていると言われています。

これは、東北から中国地方まで幅広く同じ文化圏だった何らかの名残だと思うのです。

つまり、とても大きな国だったということです。

 

そして、古事記や日本書紀で出てくる「国譲り神話」が事実とすれば、

最初に日本に来ていた太白の末裔の人たちこそが「出雲系」「オオクニヌシ」の一族だと思うのです。

神話でも出雲の国はとても豊かで大きな国だったと書かれているからです。

だからこそ、オオクニヌシ=大国主なのでしょう。

 

そして、後から大陸からやってきて豊かな出雲を支配しようとしたのが、

天孫アマテラス系の人たちで、いわゆる現在の皇室の祖先である「伊勢(神宮)系」となります。

 

この「出雲系」と「伊勢系」の2つの大陸からの新旧の移住の流れが、弥生時代に存在したと思うのです。

そして後から来た「伊勢系」は「出雲系」に「国をよこせ」と迫ります。

オオクニヌシの子供の一人は伊勢系に負けて、諏訪(諏訪大社)に逃げます。

もう一人の子供は、戦わずして降参します。

長らく平和過ぎてオオクニヌシの出雲系は「戦闘力」が貧弱または皆無だったと思われます。

しぶしぶ出雲系のボスのオオクニヌシは、「出雲大社を作ってくれるなら国を譲る」と謎の条件で国の支配権を明け渡してしまいます。

これが古事記に書かれている「国譲り神話」です。

 

神武東征で関西まで伊勢系が占領

さて、出雲系が伊勢系に負けて、関西地方以西は伊勢系の勢力となります。

しかし、その支配体制は盤石ではなく、各地方は荒れ放題だったと推測されます。

やはり、いままで戦うことを知らなかった出雲系が、急に伊勢系に支配され、

自由を奪われたので、あちこちで反乱も起こったのでしょう。

 

さて、その我が国の荒れ放題の状態を見かねて立ち上がったのが神武天皇です。

日向の国(宮崎県)からスタートして、西へ西へと武力で反乱分子の出雲系を制圧していきます。

そしてついに、当時の出雲系のボス「ニギハヤヒ」の部下の「ナガスネヒコ」と戦います。

じつはこの「ニギハヤヒ」も「天孫」と名乗っていたそうで、アマテラスと同族であると主張していたらしいのです。

「天孫」ってなんぞや?って話ですが、恐らく「大陸からやってきた人」を指すのでしょう。(ユダヤ人?笑)

なので出雲系もかつては伊勢系と同じ大陸からやってきた仲間ということになりますね。

 

そして、大和の国(奈良県)で天皇として即位します。(ワシが日本のボスじゃ!ってことですね。)

しかし、何故に奈良県でとどまり、愛知県から東には進まなかったのか?

おそらく、愛知県よりも東は伊勢系への反乱分子が少なく従順だったか、

または出雲系の勢力が強くて、そこから先に進むのが厳しかったか、

どちらか(または両方)の理由ではないかと思うのです。

 

地政学的にも愛知県と関西の境界線は高い山で閉ざされており、

関西から愛知方面に行くには関ケ原を通らねばならず関所みたいな感じでしたから、

伊勢系も出雲系も、お互いに「関ヶ原」辺りが休戦ラインだったのかもしれませんね。

 

ヤマトタケルによる出雲系の東征

さて、神武天皇の即位が紀元前660年とされますが、どうも事実かどうかは不明のようです。

実際、ヤマトタケルは12代の景行天皇の子供であり、4世紀くらいの人とされているので、

初代から12代まで1000年も開いていることになり、これはおかしいです。。。

ちなみにヤマトタケルの12代から逆算すると、

神武天皇の即位は、1世紀とか2世紀くらいじゃないの?って思うんですよね。

 

その辺の整合性はさておき、ざっくりと神武が大和(奈良県)で即位してから、

だいたい300年以上過ぎて、ヤマトタケルが現れます。

そして、西は九州の熊襲を打ち、ここで九州北部から出雲系を締め出します。

そして東に進出して、愛知県から関東から東北(仙台あたり)までを制圧していきます。

まさに、この図の青い線の通りです。

文献によれば、必ずしも全滅させるわけでなく、

ボスだけ倒して残りを従わせるという感じのようですね。

 

また、このルートは西から東へ鉄や銅の鉱物の産地をたどっているという説もあります。

こちら、山口大学の資料です。

たしかに弥生時代から武器を作るようになりましたから、

銅や鉄などの資源は死活問題だったのでしょう。

それを考えれば、資源のある地域を敵に取られる前に、

西から順に押さえていきたかったという理由もあるかもしれませんね。

 

千葉の阿久留王とは何者か?

さて、やっとのこで千葉の話です。

ヤマトタケルは千葉にもやってきまして、今の木更津へ海を渡ってやってきたのでした。

そして千葉には「阿久留王(あくるおう)」という豪族の王がいたようです。

これもいわゆる出雲系でしょう。

 

ちなみに阿久留王の首と称されるお面?のようなものが、

鹿島神宮の宝物館に展示されていますが、

それを見るといかにも縄文系、つまり出雲系の顔です。

 

悪路王(アクルオウ)の首

阿久留王が千葉のどこまでを支配していたかは不明ですが、

鹿野山あたりが本拠地?のようですから内房全域でしょうか。

ヤマトタケルは阿久留王も倒して千葉の内房を制圧したのです。

 

で、結局、千葉県民のルーツは?

その後、千葉県、とくに上総地方は親王任国となり、つまり天皇の子供が治める地域となりました。

上総は加曾利貝塚からもわかるとおり、縄文時代からの大国だったみたいですね。

なので、親王任国として選ばれたようです。

 

その後、桓武平氏たちの反乱で、この地域は荒廃してしまうそうです。

そして時が過ぎ、千葉市や上総氏がこの地を治め、徳川幕府へと続くんですが、

まあ、この辺までくると大きな流入は無いだろうって思うんですよね。

 

ていうか、日本全体として縄文系・出雲系の人たちが占めていて、

それが伊勢系の人たちに日本の端へと追いやられていった。

しかし、全部が追いやられたわけでもなく、

支配者が出雲系から伊勢系へと変わっても、

庶民レベルでは生活にあまり変化はなかったと思うんですよね。

 

しかも関東辺りは流入元の九州北部から遠いですから、

それほどの流入そして混血ってないと思うんですよね。

 

実際、名古屋から東は、ほぼ標準語圏ですし、西は関西弁の圏内です。

この区切りが結構、出雲系と伊勢系の区切りを示しているんじゃないかと思うんですよね。

以下、wikiより、語尾に「だ」「じゃ」「や」の何を付けて話すか?の分布です。

上の図で言うと、青い部分が出雲系が多い部分ですね。(まさに出雲地方も含まれてますね)

そして、黄色が伊勢系が強い部分で、赤がそれに続く感じです。

 

そして、こちらも面白いですね、

筑波大学の資料=酒に強い遺伝子を持っている人の分布です。

まさに、北と南に追いやられた出雲系の分布になっていますよね。

ちなみにぼくは全然飲めませんので、

顔は縄文系で酒は弥生系の混血でしょうか?笑

 

そしてこれは血液型の分布です。

これを見ると、ざっくりと東日本と西日本で分かれてますね。

いやあ、すごいですね。。。

 

まあ個人ベースでは必ずしも一致しないかもしれませんが、

全体的に見て縄文系、弥生系、出雲系、伊勢系みたいな分け方ができそうですね。

というわけで千葉県民のルーツは出雲系ということでいかがでしょうか?笑

イマイチ、ピンとこないかもしませんが、ルーツの話は面白いです。

またなにか面白い話があれば紹介しようと思います。

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