前出の「史跡上総国分尼寺跡資料館」には土器とかいろんな展示物もあるのですが、
国分寺ができるまえの房総半島の古寺の記録もありました。
すると「いすみ市」の辺りにおもしろい地名が書かれていました。
いすみ市の中心は岩熊?
いすみ市の辺りは「いじみ郡」となっており、
「じみ」なんてもう漢字が出てこないし。
で、よく見ると「岩熊」に赤丸が?
こんなところに史跡?
それとも古文献に寺があったという記録があった?
いすみの中でも、岩熊って何らかの歴史のある地区だったということ?
いったい、どういうことでしょうか?
岩熊の法興寺(跡)
恐らくこれは、法興寺のことですね。
現在の法興寺との関連性は不明だそうですが、
この法興寺の近くの田んぼに古寺の跡が発見されたそうです。
ほかにも奈良時代の瓦や法華経が書かれた板も見つかったそうで、大変貴重な史跡なのです。
ちなみに、この法興寺という寺名は蘇我の寺として有名な飛鳥寺の古名(法興寺)と同名であります。
寺と言えば仏教、仏教と言えば蘇我氏ですが、奈良時代の瓦が発掘されたということは、
まさに蘇我氏の時代の寺ということになります。
今も法興寺は旧寺跡のすぐ近くに存在するのですが、
歩いて行ける距離にあるこの寺に、蘇我氏が何らかの形でかかわっていたのかもしれません。
しかし、蘇我氏と言えば、歴史の授業では悪者で、
渡来人説まである得体の知れない悪者のイメージでですが、実際のところはどうなのか?
最近は蘇我氏は実は、悪者ではないという説がたくさん出てますよね。
蘇我氏の寺の近くに物部氏の神社が!?
ところで、いすみには蘇我氏のライバルでもある物部氏が、
1200年前にいすみに移住してきた時に創建したと言われる玉崎神社があります。
トヨタマヒメ(初代神武天皇の祖母)と、ウガヤフキアエズ(神武天皇の父)を祭る神社です。
ちなみに、一ノ宮の玉前神社は、祭神がタマヨリヒメ(トヨタマヒメの妹)なので、
いすみ市の玉崎神社の方が格が上ということになります。
実際、いすみ市の玉崎神社が本宮だという話も聞きます。
(玉崎神社は、かつての人気番組「オーラの泉」の江原氏がパワースポットとしてメディアで紹介したという噂。)
さて、ここがどんな神社かという、外見は普通の小さな神社です。
小さな神社とはいえ、神社ソングが本殿からエンドレスで流してあるなど、かなりの企業努力をうかがえます。笑
(ちなみに、本殿の右奥にある琴平(金刀比羅)神社が、江原氏いわく、かなりのパワースポットだそうです。)
個人的にはこの狛犬(↓)にとてつもないパワーを感じた。
ていうかこれ、狛犬じゃなく「犬」だよね!!
敢えて言うなら柴犬、うちのコロリさんに似ている。笑
しかも耳が寝ているので来る者に服従を意味しており、番犬の意味をなしていない!
うーん、このノホホンとした表情と妙な目ヂカラが圧倒的なパワーを感じる!
冗談はさておき、こちらの玉崎神社が物部で、岩熊の法興寺が(多分)蘇我。
しかも創建時期はどちらも同年代とくれば、
当時のいすみでは蘇我VS物部の戦いが繰り広げられていたのか!?
蘇我氏のルーツを探ってみる
さてさてー、というわけで、どっちの味方に着こうかな~?
個人的には仏教よりも歴史の長い神道のほうが好きなので、物部派!
と、言いたいところですが、「蘇我氏=仏教しかも歴史上は悪者、だから嫌い!」というのもかなり単純な思考回路です。
蘇我馬子と物部守屋のケンカシーンなどは、事実であれば、
お互い幼稚でどっちもどっちであるのに、
蘇我だけが「嫌な奴」のイメージが付いたのはなぜ?
ここは少し検証してみないといけませんね。
とはいえ、検証するまでもなく日本書紀や古事記が蘇我氏を恣意的に悪者に仕立てている事は自明です。
歴史は常にその時代の強者によって作られるからなのです。
それはさておき、蘇我氏の祖はタケノウチノスクネです。
この人は計算上300年以上生きていることになり実在しないのではないかと言われているのですが、
恐らく、タケノウチスクネは個人名ではなく、官職名であったのかもしれませんね。
それを世襲で受け継いできた一族がいたのかもしれません。
そう考えないと、300歳とかありえません。
または、記紀を編纂した者たちの歴史改ざんの結果、300歳ということになってしまったのかもしれませんね。
墓穴を掘ったというやつです。
タケノウチスクネも蘇我氏も出雲系
しかし、いろんなエピソードに具体的な描写でもって登場する人物であるので実在しなかったとは非常に考えにくいのです。
ではタケノウチノスクネの祖先は誰かというと孝元天皇に行きます。
つまりは、歴史をさかのぼると蘇我氏は皇室の人間なのですねー。
ちなみにタケノウチスクネは気比神社や宇部神社をはじめ山陰、日本海側の神社に祭られており、
出雲とも関連が深かったことがわかります。
タケノウチノスクネの母親は紀国造の家系だったことを考えると、やはり出雲との関連性を否定できません。
出雲といえば、大国主の国で、もとから日本にいたとされる部族の国です。
また、蘇我は「スガ」や「スサ」が訛ったものという説もあり、そこにはスサノオとの縁をも感じさせます。
スサノオも出雲です。
さらに、千葉県には「蘇我」という街があり、蘇我氏とは切っても切れない縁のある土地なのです。
しかもそう考えると、蘇我氏は1500年前から千葉におり、
いすみに移住してきた物部氏よりも300年も早く千葉にいることになります。
千葉県民である限りは、蘇我氏の悪口は言えないのです! 笑
蘇我氏はミーハーだったんだろうな
とはいっても、蘇我氏は国を治めるために仏教を広めてしまったという問題があります。
仏教そのものの教義は決して悪いとは言えませんが、宗教を政治利用したことには疑問が生じます。
恐らく、蘇我氏とは新しい物好き(ミーハー)の策略家なのではないかとも思いますね。
もちろん、新しいものとは、外国の文化です。
タケノウチスクネも「帰化人を使役して彼らをの文化や知恵を使って政治力を駆使した」とされています。
なので、蘇我氏もまさにその流れ、というか役職を受けついだのだろうと思われるのです。
そこで蘇我氏は、仏教が政治に使えると踏んだんでしょう。
まあ、そんな蘇我氏も藤原(中臣)に潰されてしまうのですが、
記紀にはその藤原の思惑も存分に反映されているはず。
そのあたりも考えると、やはり蘇我だけが悪く書かれるのは何か裏があるのだと思います。
歴史は勝者が作るのですねー。