久々の更新です。
ここ最近は夢日記と創作活動にうつつを抜かしておりました。
これらの成果についてはまたの機会にお話ししたいと思います。
とにかくサボり過ぎていましたので、そろそろ活動を再開したいと思います。苦笑
さて、今日は定番「日月神示」に出てくるパワーワードでもあります「五度の岩戸閉め」についての考察です。
「五度の岩戸閉め」とは、神話の時代から五度にわたり日本を貶めてきた元凶たる事件のことを指します。
そこには神武天皇や仏教伝来の話も出てくることから、日本の歴史とも大きくかかわる話です。
ただ、この「五度の岩戸閉め」については、日月神示を読んだところでイマイチわかりにくいのです。
結果、ぼんやりとした解釈しかできなかったところを、今回はある程度の結論を出そうという試みであります。
まあ、ちょっと長くなりますけどね、。苦笑
しかし、深堀して細部まで考察したい人には楽しく読めるのではないかと思っております。
というわけで、以下、皆様がよりよく生きるための材料になれば幸いでございます~。笑
目次
五度の岩戸閉めとはなにか?
えーと、まずは「五度の岩戸閉め」と聞いてピンと来ない人のための解説から始めましょう。
「五度の岩戸閉め」とは、日月神示に出てくる一節であります。
日月神示については当ブログでも解説してますので、ご存じない方は以下の記事を読んでくださいね。
これ以外にも「日月神示」について触れている当ブログの記事はたくさんありますので、以下お時間があればお読みください。
五度の岩戸閉めはいつ起こったか?
さて、日月神示を読みますと、文中に次のような内容が書かれた一節が出てきます。
これが、「五度の岩戸閉め」であります。
岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ。
誤解を恐れず、ざっくりと言えば、過去に日本を悪くした歴史的な事件を「岩戸閉め」と呼んでいるのです。
そしてそれが神話の時代と奈良時代あたりまでで通算5回あったということなのです。
イザナギ・イザナミの時代、アマテラスの時代、スサノオの時代、神武東征の時代、仏教伝来の時代の5度です。
でもこれだけでは、岩戸閉めとは何か、具体的な内容がわかりません。
そこで、日月神示を読み進めますと、次の通り、5度の岩戸閉めそれぞれについて詳しく説明している箇所が出てきます。
岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。
次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。
次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。
神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。
仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ
これを読めば、なんとなく分かった気になるとは思います。
でも、本当にこの内容を理解できますか?
例えば、神武天皇が人皇として即位したことの何が岩戸閉めなんでしょうか?
神(皇)じゃなくて人(皇)だから?
うーん、もうすこし詳しい理由が知りたいですよね。
岩戸閉めとは何を意味するのか?
そこで日月神示をもう少し詳しく読んでみることにします。
すると、このような一節が見つかります。
日本の上に立つ者に外国の教伝へて外国魂に致したのは今に始まった事ではないぞ、外国の性根入れたのが岩戸閉めであるぞ、五度ざぞ、判りたか。それを元に戻すのであるから今度の御用中々であるぞ、中つ枝からの神々様には判らん事ざぞと申してあることもガッテン出来るであろがな。
はっきりと「外国の性根入れたのが岩戸閉めである」と書かれていますね。
つまり、日本(の政治)に外国由来の教えや物事の考え方を取り入れたことが良くないと言っているのです。
でも確かに「仏教」は、中国を経てインドから来たから外国の教えですが、イザナミとイザナギの事件について考えた時、どこがどう「外国の性根」なのかわかりますか?
神武天皇が人皇として即位した時、その何が「外国の性根」だったのでしょうか?
やっぱり、腑に落ちないというか、よくわかりませんよね……。
もう少し詳しく探ってみましょう。
※ ちなみに神武天皇については、ナガスネヒコの背後に新羅がいたという話を前回別のブログで書きましたが詳細は後ほど。
【一度目の岩戸閉め】伊邪那美命が黄泉の国へ行った時
まず最初はイザナギ、イザナミの時代の初発の岩戸閉めから考察していきましょう。
その前提として、イザナギ、イザナミとは誰なのか、彼らは何をした人(神様)なのかを最初に説明します。
それを知らなければ、岩戸閉めの意味は理解できませんので。
記紀神話でのイザナミとイザナギ
イザナギ、イザナミとは、記紀(日本書紀、古事記)に出てくる登場人物です。
はるか大昔、神話の時代に日本列島を作り出した神様であります。
これを通称「日本の国生み神話」と呼んだりします。
いちおう日本の国を生んだ神とされていますが、日本に最初に来た人とも考えられます。
事実が神話的に書かれている場合もあるので注意が必要です。
さて、イザナギとイザナミが日本国を生んだ後、次は神を産むことになります。
しかし、このときに事件は起こりました。
たくさん神を生んだのですが、最後に産んだ子供が火の神だったのです。
そのせいで妻のイザナミは焼け死んでしまうのです。
亡くなったイザナミは黄泉の国(死者の世界)に行ってしまい、夫のイザナギは大いに悲しみます。
そこでイザナギは妻を追って黄泉の国へ向かいます。
そしてめでたくイザナミと再会を果たすのですが、その時にイザナミは夫のイザナギに「私を絶対に見ないでね」と言うのです。
でも、夫としては、せっかく妻と再会できて声も聞けたのに、顔を見ずに黄泉の国から去るなんてことはできません。
ついに愛おしさのあまり約束を破りイザナミを見てしまうのですが、なんと、イザナミの姿は醜いゾンビと化していたのです……。
「見ぃ~~~たぁ~~~なぁ~~~!」
夫に恥ずかしい姿を見られたイザナミはブチ切れます。
「よくもスッピンの私の顔を見たわね!」どころの騒ぎではありません。笑
腐敗してウジやハエがたかった自分を見られたのですから、それはもう我慢ならないほどの屈辱だったことでしょう。
まるでゾンビ映画のような話ですが、次のように日本書紀にそのまんま書かれています。
然後、伊弉諾尊、追伊弉冉尊、入於黃泉而及之共語時、伊弉冉尊曰「吾夫君尊、何來之晩也。吾已湌泉之竈矣。雖然、吾當寢息、請勿視之。」伊弉諾尊、不聽、陰取湯津爪櫛、牽折其雄柱、以爲秉炬而見之者、則膿沸蟲流。今世人、夜忌一片之火・又夜忌擲櫛、此其緣也。時、伊弉諾尊、大驚之曰「吾不意、到於不須也凶目汚穢之國矣。」乃急走廻歸。于時、伊弉冉尊恨曰「何不用要言、令吾恥辱。」乃遣泉津醜女八人、一云泉津日狹女、追留之。故伊弉諾尊、拔劒背揮以逃矣。因投黑鬘、此卽化成蒲陶、醜女見而採噉之、噉了則更追。伊弉諾尊、又投湯津爪櫛、此卽化成筍、醜女亦以拔噉之、噉了則更追。後則伊弉冉尊、亦自來追。是時、伊弉諾尊、已到泉津平坂。一云「伊弉諾尊、乃向大樹放尿、此卽化成巨川。泉津日狹女、將渡其水之間、伊弉諾尊、已至泉津平坂。」故便以千人所引磐石、塞其坂路、與伊弉冉尊相向而立、遂建絶妻之誓。
日本書紀
その一方で夫のイザナギは、ゾンビ化したイザナミに恐れをなして黄泉の国から逃げ出します。
しかし逃げても逃げてもイザナミは追ってきて、ついにイザナミの手下のゾンビ軍団まで現れて絶体絶命の危機に陥るのです。
それでも命からがら黄泉の国を逃げ出したイザナギは、黄泉の国の出入り口をでっかい岩、つまり千曳の岩戸でふさいでしまうのです。
まさに岩戸閉めです。
その時、イザナミは怒って夫のイザナギに呪いの言葉を言い放ちます
「そんなことするなら、あんたの国の人間たちを一日千人殺しちゃうからねーっ!」
それを聞いたイザナギは、妻のイザナミに言い返します。
「だったら一日千五百人産んじゃうもんねーっ!」
この大人げないやり取りも次のように日本書紀に書かれています。
時伊弉冉尊曰「愛也吾夫君、言如此者、吾當縊殺汝所治國民日將千頭。」伊弉諾尊、乃報之曰「愛也吾妹、言如此者、吾則當産日將千五百頭。」
日本書紀
それにしても1500人産んで1000人殺すって、なんそれ?
三歩進んで二歩下がるみたいな。笑
ま、そこは置いといて、簡単に言うと最初は仲良かった夫婦が、ケンカして別れちゃう話なんですね……。
そして、これが日本の夫婦の原型なのです……。悲
イザナギ・イザナミは物質偏重の不完全な世界を作ってしまった
以上の記紀神話を踏まえまして、改めて日月神示を読み返してみましょう。
とくに、赤字の部分の意味を考えながら読んでみてください。
岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。
卵を生んだと書かれていますが、恐らく神話の「1500人産んで1000人殺す」のことを、卵を使って割合的に示しているのでしょう。
でも、卵のくだりを割合でみると、順に「10:8」、「12:10」、「5:4」となっており割合がおかしいです。
なぜなら「1500人産んで1000人殺す」ならば、「1500:1000」つまり「3:2」でなければなりません。
とすると、この卵のくだりは、なにか別のことを表しているんでしょうか……?
そこで、さらに日月神示を読み進めていきますと、このような一節があります。
人民の肉体も心も天地も皆同じものから同じ想念によって生れたのであるぞ。故に同じ型、同じ性をもっているぞ、そのかみの天津神はイザナギ、イザナミの神と現われまし、成り成りの成りのはてにイザナギ、イザナミの命となり給ひて、先づ国土をつくり固めんとしてオノコロの四音の島をならし八尋殿(やひろどの)を見立てられたのであるぞ、これがこの世の元、人民の頭に、東西南北の四方があり八方と拡がるであろうが、八十となり、八百、八千と次々に拡がりて八百万(やをよろづ)となりなるのであるぞ。
四と八によってなされたのであるから、森羅万象の悉(ことごと)くがその気をうけてゐるのであるぞ。原子の世界でもそうであろうが、これが今の行き詰りの原因であるぞ、八では足らん、十でなくてはならん、〇でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因はこれで判ったであろうがな。
なるほど、「10」という数字を完全であるとして、「8」までしかイザナギはこの世界に生まなかったという意味だったのです。
同じ比率で、「5」が完全であるとすれば、「4」までの世界を作ったとも言えます。
しかも、この4と8の世界は原子(炭素)の世界にも反映されているという見事さ。
「10の卵を8つ生んで2つ残した」または「5の卵を4つ生んで1つ残した」というのは、このことを指していたのです。
つまり、イザナギが作りだしたのは、8割の未完成の世界なのです。
でも、僕たちの世界が八割の未完成な世界だからって、何が悪いんでしょう?
誰も今の世界が完璧だとは思ってないし、完璧である必要はあるのでしょうか?
八割あれば上出来じゃないでしょうか。
「八割じゃダメですか!?」
って、「二位じゃダメですか」みたいに言ってしまいましたけど……。苦笑
なぜ八割じゃダメなのか、これについて、さらにもう一歩踏み込んだ記述があります。
ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ、妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり、コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ。
なるほど、八割の世界はつまり「物質偏重の世界」という意味だったのです。
残りの二割に肝心な精神性の部分が含まれていたのに、それが全く入ってない八割という意味だったのです。
日月神示でよく出てくるフレーズですが、「〇」に「´」が入ってないということですね。
これならば同意できます。
かなりしっくりきました。
夫のイザナギが作り出したのは物質だけの世界。
妻のイザナミの住む黄泉の国は、幽界・霊界、つまり非物質の世界です。
物質の世界は、非物質の世界が無ければ不完全なのです。
物質偏重の世界には、心の世界の働きが必要なのです。
お金や物だけを重視した、心、精神性のない世界はダメだということなのです。
夫婦がケンカして別れたことで、二人は図らずも両極端な二つの不完全な世界を作ってしまった。
そして、今もまだお互いが離れ離れ(岩戸が閉められた状態)であるという意味だったのです。
イザナギ・イザナミが幽界を作り出したことが岩戸閉めとなった話を動画にまとめました
【日月神示・解説】日本は過去に五度も外国に乗っ取られた!諸悪の根源はイザナギとイザナミが生んだ幽界だった。~五度の岩戸閉め「一度目」
イザナギ・イザナミ神話はイスラエルの失われた10支族を意味していた
というわけで「10の卵を8つ生んで2つ残した」または「5の卵を4つ生んで1つ残した」については理解できました。
でも、同じく卵のくだりに書かれていた「十二の卵を十生んだ」について。
これ、なんだか引っ掛かりませんか?
12:10 = 6:5
八割と二割、つまり「5:4」の物質・非物質の世界とは割合が違いますよね。
勘の良い方はお気づきかと思いますが、12と10と言えば、そうです、イスラエルの失われた10支族です。
旧約聖書によれば、イスラエル人には12の支族(部族)があると書かれています。
紀元前の話ですが、イスラエルは国が2つに分かれたことがありました。
12支族のうち10支族は北王国に、2支族は南王国へと別れました。
つまり、十二の卵とは、まさにこの北王国と南王国に10と2で分かれたイスラエル12支族のことを指しているのです。
実はこの十二の卵の謎解きが火水伝文に書かれているのです。
少しわかりにくい内容ですが、次の文章をお読みください。
ユダヤ十二部族の型示しあるは、正しくイザナギ、イザナミ御二神の分かれ型。初発の岩戸閉めの、大事な型を知らしめあるのぞ。開き盲ばかりでござるから、解からぬのは無理もござらぬが、こ度に関わる大事にてあるから申して置くぞ。ナミ、カミサラレなさるにありて、末のこ度に【元つマコトの神真釣り】復するを計ろいて、計りた仕組みをご守護なさる正神真神の御二神を、残し置かれた、いう事にてあるのぞ。
(カミ)サラレマシテ二神を残されあそばされたのであるぞ。十(カミ)真釣り閉じ去られまして地のへに二民を残し置かれた、とも言えるのぞ。十(カミ真釣りと引き換えに、二つに分かつ知を残し置かれた、とも言えるのじゃ。ご自身のオイノチと引き換えに、知恵の神をお産みになられた、申すことじゃよ。火水伝文
ここには、12支族が10と2に分かれたことの本当の意味が書かれています。
神(十)が去って天照大神と素戔嗚尊の神(二)を残したという解釈。
そして、神(十)が去って地上にユダヤとスメラの民(二)を残したという二つ目の解釈。
そして、神(十)が去って、二元性の世界(二)を残したという三つ目の解釈です。
この二つ目の解釈のように、イザナギとイザナミの説話は、イスラエル12支族の歴史と相似形であるのです。
火水伝文は賛否両論多い書物ですが、日月神示を詳しく解説する役割の書であるとされています。
読んでいるとちょいちょい疑問符というか、引っ掛かる内容がありますが、一読の価値はあると思います。
火水伝文について詳しく知りたい方は、過去のブログ記事をご覧下さい。
かつてイスラエルの失われた10支族は日本にやってきた
さて、その後、10支族の北王国はアッシリアに滅ぼされてしまいます。
そして、2支族の南王国だけが残ります。
滅ぼされた北王国の国民の多くは捕虜となるのですが、一部の人たちは逃げ延びました。
逃げ延びてどこに行ったのか?
実は、その滅亡した北王国から逃れてきた10支族の人たちが日本にやって来たという伝説があるのです。
その証拠はいくつかあります。
例えば、天皇家の紋章(菊花紋)が、なぜか中東の遺跡や発掘物に刻まれているという事実。
シュメールの三種の神器が、なぜか日本の三種の神器と同様に「鏡と首飾りと剣」だという事実。
さらに旧約聖書の「契約の箱」が2本の棒によって人々に担がれている様子が、まるで日本のお祭りの主役であるお神輿と瓜二つという事実。
日本の伝統文化とされているものが、なぜか古代の中東、シュメール、イスラエルに見られるのです。
ということはつまり、日本民族とユダヤ民族は先祖が同じではないだろうか!?
はい、これを「日ユ同祖論(にちゆどうそろん)」と呼んでいます。
証拠は他にもたくさんありますが、これらの事象から、シュメール・イスラエルからの渡来人が日本にやってきて文化を伝えたのではないか?
イザナミ・イザナギのモデルは、旧約聖書のイザヤではないか?
などという仮説がたくさん生まれたのです。
これは、古代の優れた航海技術に加えてシルクロード(草原の道・オアシスの道・海の道)などの存在を鑑みれば十分にあり得る話だと思います。
イスラエル十二支族は一致団結しなければならない
少し話がわき道にそれましたが、実はここが重要なポイントなのです。
イスラエル12支族のうち10支族が日本にやってきて今に至りますが、いまだ2支族はイスラエル(もしくは世界の政治経済の支配層)にいるという意味でもあります。
つまり12支族がバラバラになって不完全な状態が今もまだ続いているんだよという意味なのです。
日月神示には以下のように書かれています。
今に世界の臣民人民 誰にも判らん様になりて上げもおろしもならんことになりて来て、これは人民の頭や力でやってゐるのでないのざといふことハッキリして来るのざぞ。何処の国、どんな人民も成程ナアと得心のゆくまでゆすぶるのであるぞ。今度は根本の天の御先祖様の御霊統と根元のお地(つち)の御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラ神国とユツタ(ユダヤ)神国と一つになりなされて末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ、今の臣民には見当とれん光の世とするのぢゃ、光りて輝く御代ぞ楽しけれく。悪い者殺してしまふて よい者ばかりにすれば、よき世が来るとでも思ふてゐるのか、肉体いくら殺しても魂迄は、人民の力では何うにもならんであろがな。元の霊(たま)まで改心させねば、今度の岩戸開けんのぢゃぞ、元の霊(たま)に改心させず肉体ばかりで、目に見える世界ばかり、理屈でよくしようとて出来はせんぞ、それ位 判って居らうが、判りて居り乍ら他に道ないと、仕方ないと手つけずにゐるが、悪に魅入られてゐるのぢゃぞ、悪は改心早いぞ、悪神も助けなならんぞ、霊(たま)から改心させなならんぞ、善も悪も一つぢゃ、霊も身も一つぢゃ、天地(アメツチ)ぢゃとくどう知らしてあろが。何んなよいこと喜ばして知らしても、聞かせても、今の臣民人民 中々云ふこときかんものぢゃぞ。この道にゆかりある者だけで型出せよ、カタでよいのぢゃぞ。
スメラ神国というのは皇(すめら)の国、つまり日本を指します。
ユダヤ神国とはイスラエル、または……、フリーメーソンなど陰謀論界隈を賑わせている国際金融財閥や世界の政治経済の支配層のことを指します。
ちなみに、日月神示ではフリーメーソンのことを「イシヤ」と呼んでいます。
知恵でも学問でも、今度は金積んでも何うにもならんことになるから、さうなりたら神をたよるより他に手はなくなるから、さうなりてから助けて呉れと申しても間に合わんぞ、イシヤの仕組にかかりて、まだ目さめん臣民ばかり。日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。今度は神があるか、ないかを、ハッキリと神力みせてイシヤも改心さすのぞ。
イシヤとはつまり、石屋さんなのですが、はい、そうです、石工組合を起源とするフリーメーソンを指します。
フリーメーソンに限らず、世界経済や政治を動かしている人たち、つまり国際金融財閥や世界支配者層とも言えます。
このように日月神示はイシヤ=フリーメーソン=ユダヤのことを悪の権化のように書いておりますが、それなのに「一緒に世界を治めよ」とも書いているのです。
次の一節をお読みください。
岩戸開く仕組 知らしてやりたいなれど、この仕組、言ふてはならず、言はねば臣民には分らんし、神苦しいぞ、早う神心になりて呉れと申すのぞ、身魂の洗濯いそぐのぞ。二三三二二(アイカギ)、、コノカギハイシヤトシカテニギルコトゾ。
「コノカギハイシヤトシカテニギルコトゾ」とあります。
わかりやすいように漢字まじりで書くと、「(岩戸を開く)鍵は、石屋としか(しっかりと)手を握ることだ」と書かれているのです。
元は一つだった二つの国の人々が反発することなく一緒になって手を組んで、影のない光の世界へ人々を導くことが必要であると説いているのです。
日本はどちらかというと精神性を重んじる国民性ですが、金融・投資が盛んなユダヤ、欧米的価値観は物質偏重であるとも言えます。
これはまさに、イザナギ・イザナミの初発の岩戸閉めで、物質界と霊界が別れてしまった事を象徴するような対比関係であるとも言えます。
この相反する世界が別れてしまった元を作ったイザナギ・イザナミの説話こそが一度目の岩戸閉めだったのという意味なのです。
イザナミ・イザナギの話は旧約聖書と相似形であるという話。その他、岩戸開きについて動画にまとめました
【日月神示・解説】日本は過去に五度も外国に乗っ取られた!諸悪の根源はイザナギとイザナミが生んだ幽界だった。~五度の岩戸閉め「一度目」
【二度目の岩戸閉め】天照大神が岩戸から出た時
さて、次は二度目の岩戸閉めについての考察です。
二度目の岩戸閉めは天照大神(アマテラス)の時代です。
まずは前提として、天照大神とは何者かについてお話しします。
と言っても皆様ご存知の通り、天照大神もナギ・ナミと同じく記紀に出てくる神話上の登場人物です。
実は実在する人物で、しかも、その正体は卑弥呼だったという説もありますけどね。
以前にブログで書きました。
ちなみに、「卑弥呼はだれか?」の続編はまたの機会に書こうと思っています。
って、続編があるんかい!笑
記紀神話の天照大神とは何者か?
話を戻しまして、まず最初に記紀での天照大神はどのような神だったか説明しましょう。
言わずと知れた日本の高祖でもある天照大神は、先ほど出てきました、イザナギ・イザナミの子なのです。
しかも、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三人姉弟でありまして、この三人をとくに三貴神と呼んだりします。
といっても正確には、この三貴神は、男神であるイザナギが一人で生んだ神様であります。
なぜならイザナミは黄泉の国に引っ込んでしまいましたからね。苦笑
さて、前述の通り天照大神は三姉弟で、弟たちに素戔嗚尊(スサノオ)と月読尊(ツクヨミ)がいます。
ある時、素戔嗚尊は父であるイザナギの命令に従わず泣いてばかりだったため、高天原から根の国へ追放されてしまいます。
ところが素戔嗚尊は、根の国へ行く前に「姉ちゃんに別れの挨拶をしに行こう!」と思い立ち、天照大神の住む高天原へとやってきます。
しかし、天照大神は、素戔嗚尊が攻めてきて高天原を乗っ取ろうとしているのではないかと疑います。
そこで天照大神は素戔嗚尊に言います。
「お前に(高天原を攻める)悪い心が無ければ、お前の生む子はきっと男だろう。もしも男を生んだら私の子供として高天原を治めさせよう」
この「賭け」のような行為を誓約(うけひ)と呼びます。
「もし●●だったら、××であり、●●じゃなかったら○○だ」みたいに事前に宣言しておいて、その結果で占う方法です。
僕もたまにやります。笑
すると素戔嗚尊はみごとに男の子を生んで、わが身の潔白を晴らしたのでした。
つまり、天照大神と誓約をして勝利したのです。
しかし、身の潔白を晴らして気をよくした素戔嗚尊は、高天原で調子に乗って暴れまくります。
素戔嗚尊が暴れて高天原を荒らす様子を見た天照大神は、怒り狂って天の岩戸という岩でできた洞穴に隠れてしまうのです。
ここからが、かの有名な岩戸隠れ神話の始まりです。
天照大神が岩屋に隠れてしまったことで世の中は真っ暗闇になってしまいます。
一国の統治者がへそを曲げて政治を放棄して隠れてしまったのですから、そりゃみんな困りますよね。
そこで、高天原の神々はどうにかして天照大神を岩屋から引っ張り出そうと画策します。
そこで彼らがとった作戦は、天鈿女命(アメノウズメ)に天照大神が隠れる岩屋の前で裸踊りをさせることでした。
そうすることで天照大神の興味を引こうとしたのです。
すると神々の思惑通り、天鈿女命の裸踊りが気になった天照大神は、岩戸を少しだけ開けて外の様子を見ます。
その時、手力雄神(タチカラオ)が少しだけ開いた隙間に手を入れて岩戸を思い切りこじ開け、天照大神を外に引っ張り出したのです。
神々は「もう二度と隠れないで下さいねっ!」と天照大神にお願いをして、「了解っす!」で一件落着!というお話です。
ダマシタ岩戸からニセ天照大神がお出まし?
しかし、日月神示はこれこそがまさに岩戸閉めであるというのです。
それを示しているのが次の一節です。
次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。
日月神示は天照大神を騙して引っ張り出したと書いているのです。
本物はまだ岩戸の中におり、騙して引っ張り出してきた神様は本物ではない別の神様だと言っているのです。
それではいったい引っ張り出してきた神様は何者なのか?
日月神示を読み進めると、次のように書かれています。
天照皇太神宮様(テンショウコウタイジングウサマ)の岩戸開きは、だました、間違ひの岩戸開きぞ、無理にあけた岩戸開きざから、開いた神々様に大きなメグリあるのざぞ、今度はメグリだけのことはせなならんぞ、神にはわけへだて無いのざぞ、今度の岩戸開きはちっとも間違ひない、まぢりけのない、マコトの神の息吹でひらくのざぞ。
天照大神ではなく、天照皇太神宮様と書かれています。
この違いはわかりますか?
天照大神と天照皇大神。
後者は「皇」の文字が一文字多いです。
ということは、天照大神と、天照皇大神は別人ということなんです。
そうです、現代人は天照皇大神と、天照大神を取り違えているのです。
日月神示はそれを明確に示しています。
最初に引用した次の一節でも、よく見ると「天照大神」と「天照皇大神」を明確に区別しています。
次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。
そして、いよいよ(岩戸が開かれるとき)になると、本物の天照大神と、すり替わった天照皇大神と、日の大神という謎の神が3人出てくると書かれています。
「出てくる」とは、つまり正体が明らかになる、ということですね。
えっ、ちょっと待って!
天照大神は三人いるの?
はい、そうなんです、実は天照大神は三人いるのです!
このことは以前に九神文書について書いた記事でも書かせて頂きました。
九神文書とは古史古伝の一つではありますが、中臣家を祖先に持つ九神家に残る古文書です。
九神文書には神話(物語)は書かれていませんが、その代わりに神の系譜が淡々と書かれています。
これを読むと、三人の天照大神の謎が解けるのです。
天照大神は三人いた(九神文書)
上述の通り「九神文書の研究」という書籍には神様の系図が記載されています。
その系図を読みますと、確かに三人の天照大神がいるのです。
始まりの神からの系譜を示した、こちらの系図をご覧ください。
まず一人目の天照大神は、根源の神から数えて二代目の天津身光大神が生んだ天照日大神で、日月神示の言うところの日の大神です。
天照大神に「日」の文字を加えて天照日大神となっています。
これは、まあ根源神というか歴史にはあまり関与しないリアル神様的な天照大神ですね。
そして、二人目がおなじみ、イザナギ・イザナミの子としての天照大神。
系図では天照天皇と書かれていますが、ナギとナミの子供ですから、これはまさしく天照大神を指します。
そして三人目が、素戔嗚尊の子である天照皇大神です……。
えっ、素戔嗚尊の子!?
そうなんです、なんと、岩戸から引っ張り出したのはナギとナミの子の天照大神ではなく、素戔嗚尊の子の天照皇大神だったのです!
先ほどの日月神示のくだりをもう一度確認してみましょう。
天照皇太神宮様(テンショウコウタイジングウサマ)の岩戸開きは、だました、間違ひの岩戸開きぞ・・・略
天照皇太神宮様とありますが、「皇」の文字が入ってますから、これはまさに九神文書の系図にある天照皇大神と同一と考えられます。
つまり、素戔嗚尊によって高天原は荒らされ、結局、当初の天照大神の懸念のとおり、高天原は素戔嗚尊に乗っ取られてしまったのです。
そこで、本物の天照大神は追放されて、代わりの別人である素戔嗚尊の子である天照皇大神が担ぎ上げられたということなのです。
日月神示には、「同じ名の神二つあるぞ」と各所に書かれており、まさに天照大神も本当の天照大神と騙した天照大神の二つがいたのです。
悪いのは天鈿女命と手力雄神?
じゃあ、素戔嗚尊の側について、偽物の天照大神を皇位継承させたのは誰なのか?
日月神示には、このように書かれています。
天(あめ)の岩戸ばかりでないぞ、地(くに)の岩戸 臣民の手で開かなならんぞ、誠一つで開くのぢゃ、誠のタチカラオの神、誠のウズメの命殿、御用結構ぞ。ダマシタ岩戸開きではダマシタ神様お出ましざぞ、この道理判らんか、取違ひ禁物ぞ、生れ赤子の心になれば分るのぢゃぞ。
誠のタチカラオの神、誠のウズメの命殿が誠一つで岩戸を開くとすれば、それは結構な御用であると書かれています。
つまり、天照大神の気を引こうと裸踊りをしたときの天鈿女命と、岩戸を無理にこじ開けた手力雄神は「誠」心なく岩戸を開いたとも解釈できます。
または、ニセのタチカラオ、ニセのウズメという意味なのかもしれません。
ということは、天鈿女命と手力雄神はニセモノの天照大神と知って岩戸から引っ張り出したという解釈もなりたちます。
そのため下記引用のように、岩戸を開いた神々に大きなメグリがあると戒めているのです。
天照皇太神宮様(テンショウコウタイジングウサマ)の岩戸開きは、だました、間違ひの岩戸開きぞ、無理にあけた岩戸開きざから、開いた神々様に大きなメグリあるのざぞ、今度はメグリだけのことはせなならんぞ、神にはわけへだて無いのざぞ、今度の岩戸開きはちっとも間違ひない、まぢりけのない、マコトの神の息吹でひらくのざぞ。
メグリというのは日月神示でよく出てくるワードですが、因果応報、カルマと似たような意味です。
つまり、悪いことをすれば、その報いを受けるという意味です。
岩戸を無理に開いた天鈿女命と手力雄神、そして当時の神々たちは、神であろうと、わけへだてなく報いを受けますよと言っているのです。
もちろん、これは神々の子孫である我々に降りかかっているのですよ、ということなのですけどね……。苦笑
素戔嗚尊は外国の神だった
でも、少しだけ解せないことがあります。
素戔嗚尊といえども、イザナギ・イザナミの子供です。
天照大神の治めていた高天原が、弟の素戔嗚尊に乗っ取られたとしても、二人は姉弟ですから、外国の性根を入れた岩戸閉めにはならないのではないでしょうか。
ということは、外国の性根を入れたのは素戔嗚尊ではなく、岩戸を開いた天鈿女命と手力雄神でしょうか?
確かに記紀を読むと、天鈿女命はめちゃくちゃエロくて強いですし、手力雄神は筋肉バカの乱暴者のように書かれています。
まるでアメリカ映画に出てくる悪者キャラクターです。笑
でも、アメリカ的キャラだからといって、外国の性根を入れたことにはなりません。(そりゃ当前!笑)
では何が外国の性根なのか?
実はですね、素戔嗚尊は外国から来た神様という記述が日本書紀にあるのです。
次の通り日本書紀には、「一説に素戔嗚尊は、最初に朝鮮半島の新羅に行って、その後に出雲に来た」と書かれています。
(詳細は三度目の岩戸閉めの章でお話しします)
一書曰、素戔嗚尊所行無狀、故諸神、科以千座置戸而遂逐之。是時、素戔嗚尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。
つまり、政権が天照大神から、新羅から来た素戔嗚尊(派)に移ったことで、外国の政治手法が取り入れられたとも解釈できるのです。
本物の天照大神が、素戔嗚尊の子である天照(皇)大神にすり替えられて以降即位し、素戔嗚尊(派)の政治が始まった。
外国(新羅)の性根が入ったので岩戸閉めとなったというわけです。
十種神宝(布留の言)で天照大神を蘇生させた天之鈿女
しかし、どうして天鈿女命や手力雄神、そして天照大神の側近である周囲の神々たちは素戔嗚尊に政権を譲ったのでしょうか。
理由の一つには天照大神と素戔嗚尊が誓約(うけひ)をして、素戔嗚尊が勝ったことにあります。
高天原の神々は、偉大なる女王である天照大神を負かした素戔嗚尊にリスペクトの念を抱いたのかもしれません。
しかも、素戔嗚尊は外国の高度な技術も持っており、高天原を将来発展させてくれる指導者であると感じたのです。
逆に、負けた天照大神に対しては失望と不安を感じたのかもしれません。
しかし、それだと、まるでアメノウズメとタチカラオのクーデターです。
それはさすがに過激です。苦笑
そこまでいかなくても、なにか事件があったのではないか?
そう思って日月神示を読みますと、次のような記述があります。
なにやら数字が並んでいてよくわかりませんが、まずは、ざっと読んでみてください。
判るように説いて聞かすから、今迄の智を一先づすてて、生れ赤児となりて聞いて下されよ。天之鈿女(あめのうづめ)の命が天照大神に奉った巻物には12345678910と書いてあったのぞ。その時はそれで一応よかったのであるなれど、それは限られた時と所でのことで永遠のものではないぞ。
この時代には一二三四五六七八九十の数と言葉で、死者も甦る程の力があったのであるなれど段々と曇りが出て来て、これだけでは役にたたんことになって来たのぞ。岩戸開きの鍵であったが、今度の岩戸ひらきには役にたたんようになったのであるぞ。始めに⦿がなくてはならん、⦿は神ぞ。
ここには、天鈿女命が天照大神へ巻物を献上したとあります。
その巻物には「12345678910」と書かれており、昔は「12345678910(数と言葉)」を唱えるだけで死者がよみがえったとも書かれています。
なんのこっちゃ?
と思う人がいるだろう一方で、すでに気が付いた人もいると思います。
そうです、この「12345678910」は十種神宝(とくさのかんだから)の「布留の言」なのです!
布留の言とは、先代旧事本紀に書かれている「ひと・ふた・み・よ・いつ・む・なな・や・ここの・たり、ふるえ・ゆらゆらと・ふるえ」という祝詞のことです。
分かりやすく書きますと、「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,振れ、ユラユラと、振れ」ですね。
これを唱えると死者がよみがえるという最強の祝詞(呪文)です。
しかし、なぜ布留の言を天之鈿女が天照大神に献上したのでしょうか?
そのような記述は記紀にも書かれていません。
しかも、なぜ布留の言を天之鈿女が知っているのか?
いったいこれは何を意味するのか?
実は、これと同じ内容が古史古伝のウエツフミに書かれているのです。
天之宇受売の命ハ神遊びの長として
歓らぎの比売神たちを率きて
天之香具山の天の日蔭を鬘とし天之眞拆を髪插に刺させ
八つ手葛を襷に手繦きて笹葉を手草に結イて手にハ鐸着けたる矛を持ち歓ぎ
女八人ハ手にハ茅巻きの矛を持ち右手に五十鈴を取りて岩屋戸の前津辺に槽伏せて踏み轟こし神懸りなし雀踊りて
舞ゐ廻びに一二三四五六七八九十百千萬十十百百千千千千萬萬とと歌イて合菟鼓に歌イ
あなに吉しあな嬉しあな貴ウと
あな面白と胸乳を掻き出裳緒を陰に押し垂らし腰廻りなし散らぎき故
高天之原に響みて八百萬の神たち共に平手拍たしに高らぎ笑イたまゐき
ウエツフミによれば、天之鈿女は天照大神の隠れる岩戸の前で、「12345678910……」と歌っていたのです。
もちろん、そのような記述は記紀には書かれていません。
しかも、これは死者をよみがえらすための布留の言です。
ということは、文中には書かれていませんが、このとき既に天照大神は亡くなっていたと考えられるのです!
天照大神は素戔嗚尊との誓約で負けました。
誓約とは実は戦争の比喩で、戦争が原因でなくなったのか?
たしかに日本書紀には素戔嗚尊の悪事で天照大神はケガをしたと書かれていますから、乱暴され殺されたことの比喩である可能性もあります。
是時、天照大神、驚動、以梭傷身、由此發慍、乃入于天石窟、閉磐戸而幽居焉。故六合之內常闇而不知晝夜之相代。
かりに戦争でなかったとすれば、姉弟間の後継(政権)争いの中、素戔嗚尊派に暗殺されたかもしれません。
もしくは単に老衰かもしれませんが、理由はなんであれ、すでに岩戸開きの神事の際に、天照大神が無くなっていたことは確かでしょう。
天照大神は既に亡くなっていたからこそ、天之鈿女は死者をよみがえらせるための布留の言を奏上したのです。
もちろん、実際に死者が蘇るわけがないので、これは死者と会話をするための呪文であったとの解釈が妥当でしょう。
恐らくアメノウズメは、亡くなった天照大神に「これから高天原の政治をどうすればよいか」のご神託を得たかったのです。
その後の高天原を誰に治めさせれば良いのか、天之鈿女をはじめ高天原の神々は大いに迷ったに違いありません。
しかし、黄泉の国(霊界)にいる天照大神からは良い回答が得られなかった。
そこで、弟神である素戔嗚尊への忖度か、または敬意か、已む無く「素戔嗚尊の子に日の巫女の地位を譲れと天照大神がおっしゃった」ということに「無理やり」したのでしょう。
もちろん側近の神々以外には「天照大神が復活した(岩戸から出た)」と嘘を吹聴して天照大神の威信を維持したのです。
こうして高天原は、外国の政治手法を持った素戔嗚尊(派)に政権を譲り、その子の天照皇大神を日の巫女に即位させました。
天を治める神である本物の天照大神がいなくなり、地を治める素戔嗚尊の片方のみとなったため、岩戸閉めとなったのです。
これは意味的にイザナギとイザナミの岩戸閉めに非常に似てますね。
アマテラスの岩戸閉めとなった話を動画にまとめました
【日月神示・解説】日本は過去に五度も外国に乗っ取られた!諸悪の根源はイザナギとイザナミが生んだ幽界だった。~五度の岩戸閉め「一度目」
【三度目の岩戸閉め】素戔嗚尊に罪を着せて追放した時
次は三度目の岩戸閉め、素戔嗚尊が追放された時についての考察です。
先ほど二度目の岩戸閉めでは、本物の天照大神が別人の天照大神にすり替えられてしまいました。
その後、素戔嗚尊の政治はうまく行ったかのように見えましたが、実は、そうはいかなかったのです。
「調子に乗って地を荒らした」として、素戔嗚尊は高天原を追放されてしまうのです。
ここで一つ注意しておかなければならないポイントがあります。
実は素戔嗚尊は、天照大神に会いに高天原にくる前に、既にイザナギに追放されているのです。
要するに、素戔嗚尊は最初イザナギに追放された後、次に高天原の神々に追放され、合計二度追放されているのです。
高天原を二度も追放された素戔嗚尊
そこで、高天原を二度も追放された素戔嗚尊の、一度目の追放について検証してみたいと思います。
少しだけ話は過去に遡ります。
あるとき高天原のイザナギは素戔嗚尊に「海を治めなさい」と指示を出します。
天照大神は天(太陽)、月読命も天(月)、素戔嗚尊は海、海とはつまり地上世界のすべてを、各々が治めよと指示を出すのです。
しかし素戔嗚尊は「母ちゃん(イザナミ)のいる国へ行きたいよぉ~」と泣いて嫌がったので、高天原の神々は指示を守らない素戔嗚尊を根の国へ追放するのです。
「そんなに行きたいなら行けや」と、これが一度目の素戔嗚尊の追放です。
ところで、根の国とは母であるイザナミのいる「黄泉の国」だという説があります。
一方で、根の国は罪や穢れが集まる国と言われており、実は、それは「出雲」であるという説もあります。
なぜなら素戔嗚尊は出雲の国を発展させた大国主の祖先であるとされているからです。
それに、先ほども引用しました日本書紀には、追放された素戔嗚尊は(新羅から)出雲に行ったと書かれているのです。
一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯
日本書紀
もう少し詳しく訳しますと、追放された素戔嗚尊は子である五十猛と新羅に渡るが、「この地に居たくない」と言って土で作った船で出雲に行ったと書かれています。
つまり、父のイザナギに追放された素戔嗚尊は、朝鮮半島にわたっており、その後に出雲にやってきているということなのです。
ということは、素直に読めば根の国とは朝鮮半島か、または出雲になりますよね。
ちなみに古史古伝の富士宮下文書でも、素戔嗚尊は、大陸から日本にやってきたとされています。
しかも、名前も素戔嗚尊ではなく多加王だったとしています。(のちに素戔嗚尊と命名される)
このように、素戔嗚尊は外国と縁があるという説話がたくさん残っているという点がポイントです。
素戔嗚尊は外国の文化を持っていた人だったのです。
素戔嗚尊は外国の文化を日本へ持ってきた
そして、その後の話は先ほどの二度目の岩戸閉めの通りです。
新羅から出雲を経由して、天照大神に挨拶をするため高天原にやってきた素戔嗚尊は、実は高天原を乗っ取らんとたくらんだかは別として、天照大神に誓約(うけい)を仕掛けます。
素戔嗚尊の誓約が成功すると、高天原の神々、天鈿女命らはやむなく素戔嗚の子を天照大神として即位させます。
ここで高天原の皇統の系譜が変わり、今までのしきたりや伝統が失われたという意味で、まさに外国の性根を入れた(二度目の)岩戸閉めが起こりました。
さて、誓約に成功した素戔嗚尊は大喜びします。
自分の娘が新たな天照大神(巫女)として即位し、さらに息子である天忍穗耳命(オシホミミ)も高天原の跡継ぎに決まったのですから嬉しいに決まってます。
記紀によれば、はしゃいだ素戔嗚尊は調子に乗って高天原を荒らしまくり、その荒らした罰として高天原を追放されてしまうことになっています。
これが二度目の追放です。
しかし、二度目の追放について、素戔嗚尊は高天原を荒らしたわけではないと日月神示には書かれているのです。
こちらをお読みください。
次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。
日月神示によれば、むしろ素戔嗚尊は国を守り育てた、つまり国を豊かにを発展させたのです。
外国からやってきた素戔嗚尊は、まさに外国の文化を取り入れて、日本に色々な「物」を作りだしたのです。
「重きもののつもりて固まりたもの」とは、衣服や住居や食べ物であったり、宝石などのぜいたく品でもあります。
それを見た高天原の神々は、これを「罪」であると勘違いしたのです。
「日本は精神性(心の裕福さ)のみが重要で、清貧こそ素晴らしいのであり、モノやお金は悪である!」みたいな感情を高天原の神々は感じたかもしれません。
現代風に言えば、素戔嗚尊のことを、フェラーリーに乗った荒っぽい土建屋社長だと思ったのでしょうか。笑
素戔嗚尊は北へ追放された
記紀には、国を荒らしたと書かれていましたが、実際は全くその逆で、国を発展させ過ぎてしまった。
しかし、あまりにモノにあふれる世界を作ってしまったがために、高天原の神々は素戔嗚尊を悪いやつだと見誤った。
そして、追放してしまったのです。
ところで、素戔嗚尊はどこへ行ってしまったのでしょうか。
日月神示では、素戔嗚尊は「北に押し込められた」と書かれています。
元の神には見直し聞きなほしはないのざぞ、スサナルの大神様 鼻の神様 かぎ直しないぞ、かぎのあやまりはないのざぞ。人民でも、かぎの間違ひないのざぞ。鼻のあやまりないのざぞ。スサナルの大神様この世の大神様ぞと申してあらうがな。間違ひの神々様、この世の罪けがれを、この神様にきせて、無理やりに北に押込めなされたのざぞ。
それでこの地の上を極悪神がわれの好き候(そうろう)に持ちあらしたのざ。それで人皇の世と曇りけがして、つくりかへ、仏の世となりて、さらにまぜこぜにしてしまふて、わからんことになりて、キリストの世にいたして、さらにさらにわからぬことにいたしてしもふて、悪の仕組通りにいたしてゐるのぢゃぞ、わかりたか。釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、今の仏教やキリスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。同じ神二つあると申してあらうがな。
注目すべきは「北に押し込めた」の部分であり、なぜ「北」なのかということです。
しかも、日月神示では「北」という方角をとても良い方角、元になる方角であるとしています。
霊界に方位はない、人民は東西南北と申してゐるなれど、今に東の東が現れてくるぞ。霊界では光のさす方が北ぢゃ、その他の東西南北は皆南ぢゃ、北が元ぢゃ、北(基田)よくなるぞと申してあろうがな。
素戔嗚尊は北に押し込められたと書かれていますが、北というのは霊界的な意味での北なのでしょうか。
しかし、歴史として考察する場合は現実世界の北と考えます。
恐らく文字通り日本の東北地方ではないかと思うのです。
一つの証拠として、日本には蘇民将来という説話が存在します。
なんと、その蘇民将来に出てくる北海の神である武塔神が、自らを素戔嗚尊であると自称しているのです。
また、武塔神は別名「牛頭天王」とも呼ばれ、これは異国の神でもあることから、まさに最初に新羅に降り立った素戔嗚尊を彷彿とさせます。
その説話を元に始まった蘇民祭というお祭りも、なんと、東北は岩手県を中心に行われているのです。
まさに、日月神示に書かれている通り、素戔嗚尊が北へ追放されたことの名残が説話として存在したともいえるのです。
「悪」を叩いて滅ぼしたことが岩戸閉めである
さて、話を戻しまして、なぜ素戔嗚尊の追放が三度目の岩戸閉めになったか。
つまり、なぜ外国の性根を入れたことになるのかについて考察してみましょう。
そもそも日月神示では、三度目の岩戸閉めには、5度の中でも最も重要であると書かれています。
岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ。
これはひとえに、素戔嗚尊が地上を治める神であるからでしょう。
僕らの住む地上世界を直接的に治める神を追放したからこそ最も重要だとしているのです。
そして、もう一つの理由は、素戔嗚尊の追放こそが、まさに世界の歴史を象徴しているからでしょう。
それは間違いなく戦争(集団殺戮)の歴史です。
戦争は、どのようにして起こるか?
経済的・投機的な理由から世界支配層が起こすという説もあるかと思いますが、それは戦争の根本に第三者が乗じてきているだけともいえます。
やはり、戦争の根本とは、人間同士の憎しみあいです。
これは個人レベルの対立に還元することができます。
つまり戦争とは、ケンカの延長であるともいえます。
この解決手段として善悪の基準を設けて、悪と認定されたほうを叩いて潰すのが今の世界のやり方です。
今で言えば、ハマスとイスラエルの関係、ロシアとウクライナの関係もそうですね。
どちらも相手側こそが悪であるとして相手を叩き潰し、憎しみの連鎖は永遠に続きます。
そして、この方法は今に始まったことではなく、世界史を見ればはるか古代から変わらない定型パターンであることがわかります。
しかし、日本は違うのです。
縄文時代の遺跡には、武器が全く発掘されていないという話を聞いたことはありませんか?
つまり、縄文時代には戦争というものが無かったのです。
もちろん、人口密度や、狩猟採取生活で、戦争の必要性を感じなかったということもあるでしょう。
しかし、例えそうであれ、日本には戦争のなかった時代があったということなのです。
これだけたくさん縄文遺跡があるのに武器がないというのは、つまり人を意図的に殺すという発想がなかったということです。
しかも、1万年近く戦争が無かったのです。
このように敵を叩いて潰す、もしくは意図的な大量殺戮(皆殺し)の文化がもともと日本にはなかったのです。
ところが、その文化を初めて導入してしまったのが、素戔嗚尊の追放だったのです。
悪いやつは叩いて潰して追い出してしまうという方法を、こともあろうに高天原が発明してしまったのです。
恐らく、この手法こそが皮肉にも素戔嗚尊が持ってきた外国の文化だったのでしょう。
つまり、自分自身が外国から持ってきた手法により素戔嗚尊自身が追放されてしまったのです。
それ以来、この世界では悪は追放する(叩いて潰す)が正攻法となったのです。
戦争のなかった日本に、悪を滅ぼすという外国の性根を入れたことで、岩戸閉めとなったのです。
もしかしたら、スサノオが追放された時期こそが縄文時代の終わり、弥生(古墳)時代のはじまりだったのかもしれませんね。
【日月神示・解説】日本は過去に五度も外国に乗っ取られた!諸悪の根源はイザナギとイザナミが生んだ幽界だった。~五度の岩戸閉め「一度目」
【四度目の岩戸閉め】神武天皇が人皇として立った時
次は四度目の岩戸閉めについて考察していきましょう。
四度目の岩戸閉めは、神武天皇の岩戸閉めです。
日月神示には次のように書かれております。
神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。
上記には重要なポイントが二つ含まれています。
「人皇」の部分と、「岩戸に隠した」の部分です。
それを説明する前に、そもそも神武天皇とはどんな人だったかについて説明しようと思います。
神武天皇とは何をした人か?
恐らく、神武天皇が日本の初代の天皇であることを知らない人はいないでしょう。
でも、何をした人物かってのは知らない人も多いのではないかと思いますので簡単に説明しましょう。
神武天皇はもともと筑紫(九州)に住んでいました。
高天原が出雲を手中に収め、筑紫に降り立ち、それらの地を代々治めて神武の代に至ります。
さて、神武の本名は狭野命(サヌノミコト)といいました。
ある時、葦原中国(日本の本州)を我が領土にしようと思い立ち、兄弟で東へと戦争に向かいます。
これを神武東征と呼んでいます。
ところが、神武の兄の五瀬命イツセノミコト)は討ち死にしてしまいます。
大和の国を治めていたナガスネヒコが、とても強かったのです。
しかし、狭野命は苦労してナガスネヒコを討ち破り、大和の国で初代天皇として即位するのです。
つまり、代々九州を治めていた家系の王が、はじめて日本の王(天皇)になったのです。
ところで、神武天皇が即位した年は紀元前660年とされています。
しかし、実際には皇室の権威を高めるために、より古い時代に生まれた人であるという設定にしたという説が優勢です。
なので実際には、紀元後の人物でしょう……。
だとすれば、卑弥呼は神武よりも若いことになりますから、以前に書いた卑弥呼=天照大神説は誤りだということになります。
としますと、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命説が濃厚なのですが、それはまた別の機会に話します。
神武以前の歴史が隠ぺいされた
ところで、日月神示にはこのように書かれています。
神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。
神の世から人の世への移り変りの事柄を、岩戸にかくしたと書かれていますよね。
ということは、神武天皇の説話には、なにかしらの歴史的な事実が隠されている可能性があるということを日月神示はほのめかしています。
この点において、実は以前に書いたブログで神武天皇の岩戸閉めについて書いています。
まずは、こちらを読んでいただいた方が良いでしょう。
「面倒くさくって読みたくねえ」って人のために、上記の記事の内容をざっくりと端折って説明します。
実は、記紀には書かれていない重要な事実が神武天皇の時代にあったのです。
それは3つあり、一つはウガヤフキアエズ朝という約70代も続く謎の王朝が消滅したこと。
もう一つは、ちょうど神武の時代に南海トラフ大地震が発生したこと。
そして最後の一つが、ナガスネヒコの背後に新羅がいたことです。
順番に解説していきましょう。
まずは、ウガヤフキアエズ王朝について。
実は神武の父でもあるウガヤフキアエズは、神武の父どころか70代以上も昔の人だったのです。
記紀では、この70代もある歴史を端折って、無理やりウガヤフキアエズを神武の父にしてしまったのです。
つまり、このウガヤフキアエズ王朝70代の歴史を抹殺する必要があったのです。
念のため注意しておきますが、ウガヤフキアエズ王朝は、ウエツフミや富士宮下文書、竹内文書など古史古伝と呼ばれる古文献にのみ書かれている王朝です。
(ただし、富士宮下文書は、ウガヤフキアエズ王朝は51代としています)
もちろん古史古伝は学会で認められていない偽書(ニセの古文献)として学術的資料の価値はないとされているものです。
しかし、だからといって一事が万事すべて嘘が書かれているかというとそんなことはないと個人的には思うのです。
そもそも日本書紀も古事記も原本はなく写本しかありません。
古事記だって名古屋のお寺(大須観音)で偶然に見つかった写本ですから、発見の経緯は古史古伝と似たようなもんでしょって感じですし。笑
それに、それぞれ異なる場所で発見された古史古伝が、細かい内容は異なるにせよ、ウガヤフキアエズ王朝の存在については一致しているって不思議じゃないですか?
そういう偶然の一致とは思えないところが重要ではないかと個人的には思うのです。
神武天皇は皇室の本流ではなかった
では、どうして記紀はウガヤフキアエズ王朝を抹殺(存在しないものと)したか。
恐らく、ウガヤフキアエズ王朝は正当な皇室の流れではなかったのでしょう。
つまり本流があったということです。
この点、以前に紹介した「飛騨の口碑」では、飛騨が皇室の本流だったとしています。
なぜなら、高天原はもともと飛騨にあったとしているからです。
そして、時が過ぎて大和へ遷都し、その後、九州平定のためにニニギを筑紫に派遣したという流れです。
また、富士宮下文書では、少し異なっており、富士山周辺の地域に皇室の本流があったとしています。
これを富士高天原と呼びます。
もともとは大陸(アジア)に高天原があったけど、富士山をめざして日本にやってきた人たちが富士周辺を高天原(首都)に定めたようなのです。
その後、筑紫にやってくる外敵から日本を守るためにニニギを九州に派遣したという流れです。
大きな構図では飛騨も富士も共通している、というか見事に一致してします。
つまり、飛騨も富士も、どちらも皇室の本流が国内の別の場所にあり、九州の王朝は分家(遷都先)であるとしているのです。
とすると、正史である記紀においては、初代の神武天皇が本流でない分家の出身であることは隠したいところですよね。
はい、これこそが岩戸に隠された事件の一つなのです。
南海トラフ大地震の発生
さて、次に岩戸に隠された事件は大災害です。
実は神武天皇の時代に恐ろしい大災害があったのです。
それが、南海トラフ大地震です。
しかも、定期的にやってくる南海トラフ大地震のうち、最大規模のものがやってきたのです。
その時の様子がウエツフミに書かれていた話は以前に先ほどの記事に書きました。
しかも、大災害の記述がある古文書はウエツフミだけではないのです。
富士宮下文書にも若干の時間差はありますが、神武が即位する前に大地震が起こったと書かれているのです。
今度はウエツフミと、富士宮下文書の2つに共通点がありました。
こうして、異なる情報ソースに共通点が見つけ出されると、真実味が増しますよね。
さらに、この大昔に起こった南海トラフ大地震は戦乱の世を招いてしまいました。
ウエツフミによれば大地震の混乱に乗じて、朝鮮半島の国「新羅」が日本に攻め込んできたと書かれています。
新羅は大和の豪族であるナガスネヒコと結託して、日本を支配しようとするのです。
しかし、新羅の国を「日本の外敵である」と認定するのは判断に迷うところです。
なぜなら、当時の日本は朝鮮半島まで勢力圏があったからです。
実際に朝鮮半島に任那という日本の領土が存在したという説もあります。
なので、新羅とは書かれていますが、そこを治めていたのは(スサノオがそうであるように)日本の支配者層と同族だったかもしれないからです。
しかも、神武の直接の敵である大和のナガスネヒコも、日本の国の敵と言えるのか微妙です。
なぜなら、ナガスネヒコは天孫であるニギハヤヒをボスとして葦原中国(本州)を治めてきたからです。
つまり、飛騨の口碑や宮下文書の言う、九州に遷都した分家に対する本家ですから、天孫の本流を守っていたのはナガスネヒコたちとも言えるのです。
その人たちが九州のウガヤフキアエズの勢力が広がってきたので、本家としての危機感を覚えて新羅(朝鮮半島の親日本派?)と手を組んだとも考えられるのです。
人皇を名乗らざるを得ない状況とは
ところで前述の通り、記紀によれば、ナガスネヒコのボスはニギハヤヒとされています。
ニギハヤヒというのは何者かというと、日本を昔から支配している天孫族です。
そもそも天孫降臨したニニギの兄(または父)ともされる神話上の人物です。
本当にニニギの兄(父)ということならば、まさしく天孫であります。
記紀によれば、神武天皇がナガスネヒコと対峙する時、ナガスネヒコが天孫の印を取り出して「我こそは天孫の子孫だ」と主張しましたが、それは事実だったということです。
もしもニギハヤヒがニセの天孫であれば、記紀にもそう書くでしょうけども、記紀にはニギハヤヒも天孫であると書いているのです。
ということは、神武の方に「やましさ」があった証拠ともいえます。
つまりニギハヤヒは神武よりも昔から日本を治めており、そのニギハヤヒをボスとするナガスネヒコもまた天孫である正当な日本の指導者だったのです。
ていうか、ニギハヤヒはナガスネヒコの妹を妻としていますから親族なわけですけどね。
しかし、長らく九州に派遣された天孫の子孫の神武たちは、本家の存在をすっかり忘れてしまっていたのです。
ウガヤフキアエズ王朝が70代も長く続いたのですから、そりゃ忘れるでしょう。苦笑
こうして自分たちの来歴を完全に忘れて、我らこそ本流であると勘違いしてしまったのです。
これについては前出の火水伝文(ヒミツツタエフミ)にこのような記述があります。
そは自らのミタマの来歴を知らず、そのままにありては、天孫いうも許し難き大大罪なれど、自ら知れず天孫を自称し来たりたのじゃ。それありたが由、自ら人皇を名乗らねば、治まりつかぬ程のご苦労を致されて、四度目の岩戸閉めを成されたが、正神真神のご霊統にあらせられるカムヤマトイワレヒコノミコト、神武天皇なるぞ。四度目の岩戸閉め以降、人皇の世となりて、段々に魔釣りの経絵と成りて行きたのじゃ。
火水伝文によれば、まさに神武天皇は自らは天孫であると知らずして、天孫であると自称して人皇として国を治めたと書かれています。
人皇というのは、人間の天皇という意味です。
神武天皇より前は、天皇のことを「神皇」と呼んでいました。
もちろん天皇といえども普通の人間であると思います。
ですのでこれは、単に呼び方の問題です。
神武天皇からは天皇の呼び方が変わって「人皇」となったという意味です。
言い換えると、本家では天皇を神皇、分家だからゆえ天皇を人皇と呼んだとも言えます。
ここに本流から外れてしまった、皇統の系譜が変わったという意味が隠されているのです。
さらに、神武天皇の兄は戦死していることから、必ずしも快勝したわけではありません。
なんらかの終戦協定を本家のナガスネヒコ・ニギハヤヒ側と結んだとしても不思議ではありません。
その背後に新羅がいたとすれば、日本国内と朝鮮半島との交易・交流も条件に入っていたかもしれません。
天孫族の本流の政治のやり方を神武天皇が変えてしまったことや、朝鮮半島との協定もあったかもしれないこと。
そして、なにより皇統の系譜を変えてしまったことが、まさに外国の性根を入れた岩戸閉めだったのです。
神武天皇と新羅との関係
ところで、神武天皇には三人の兄がいます。
神武東征で亡くなった五瀬命、そして、稲飯命、三毛入野命の三人です。
前述の飛騨の口碑を紹介したブログにも書きましたが、天孫族は末っ子が家を継ぐ末子相続が多いです。
邇邇芸命、彦火火出見尊も末っ子ですし、出雲系の神々も末子相続です。
そして、神武天皇もまた末っ子であり、三人も兄がいるのに、末っ子の神武天皇が皇位を継承したのです。
これが何を意味するか?
実は末子相続というのはアジアの遊牧民などにみられる風習なのです。
日本では主に九州、そして西日本によく見られる風習です。
大陸に近い九州、そして西日本となると、これはまさに外国から伝わった風習である可能性が高いですよね。
ちなみに、素戔嗚尊も末っ子なんですよね。
二度目の岩戸閉めで素戔嗚尊が高天原の政権を取ったとき、これはまさに末子相続であったとも言えますよね。
その後、邇邇芸命、彦火火出見尊、そして神武までそれが続くということは、やはり素戔嗚尊がもたらした外国の文化なのかもしれません。
ところで、先ほど神武天皇の兄が三人いると書きました。
そのうちの一人が稲飯命という人物です。
実は平安時代に編纂された新撰姓氏録という古代氏族名鑑によれば、稲飯命は新羅王の祖とされているのです。
なんと、神武の兄が新羅の王になっているのです!
決して古史古伝扱いではない、新撰姓氏録という学術的に評価された資料にそう書かれているのです!
仮に言い伝えとして書かれているとしても、書かれるからには何らかの理由があるはずです。
つまり、神武(の家系)と新羅には、なんらかの関係があったのです。
このことからも、神武天皇の即位は、外国の性根を入れ、かつ日本の伝統を失わせた可能性が高いと言えるのです。
【日月神示・解説】日本は過去に五度も外国に乗っ取られた!諸悪の根源はイザナギとイザナミが生んだ幽界だった。~五度の岩戸閉め「一度目」
【五度目の岩戸閉め】仏教伝来の時
さあ、最後の五度目の岩戸閉めの考察です。
五度目の岩戸閉めは非常にわかりやすいので、考察・解説はさほど不要かと思います。苦笑
仏教という外国の宗教を、神道の国である日本にもたらしたことは、まさに外国の性根を入れたと言えるからです。
仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ
神道は道で仏教は教え
そもそも神道は文字通り「道」であり、仏教は「教え」です。
中道という言葉もあるように、道に善悪はありません。
しかし、「教え」には、その性質上「善悪」がありますよね。
「地獄」という概念もあったりしますね。
地獄に落ちたくないから仏像を拝む、という強迫観念の発生元でもあります。
ちなみにキリスト教には「原罪」という言葉もありますね。
これも問題のある考え方ですが、まぁ、この辺は表面的な話ではあります。
それよりも大きな問題の一つは、宗教は往々にして排他的であることです。
宗教が原因で起こる世界各地の戦争を見れば一目瞭然です。
日本でも、宗教の違いを許せない人々や、それどころか異教を断じて受け入れない宗教・宗派が存在します。
日月神示にはこのような一節があります。
宗教によるもののみ天国に行くと考へるもの、自分の教会のみ天国に通ずると思ふもの、皆 悪の眷族ばかり。
地獄説く宗教は亡びるぞ。地獄と思ふもの、地獄つくって地獄に住むぞ。地獄はげしくなるぞ。人間の力だけでは、これからは何も出来ん。アカの世からキの世になるぞ。世は、七度の大変りと知らしてあらう。
同じ所に天国もあり、地獄もあり、霊界もあり、現実界もあり、過去も未来も中今にあるのぞ。同じ部屋に他の神や仏をまつってはならんと申す一方的なメクラ宗教にはメクラが集まるのぢゃ。病気が治ったり運がひらけたり、奇跡が起ったりするのみをおかげと思ってはならん。もちと大き心、深い愛と真の世界を拝めよ。とけ入れよ。浄化が第一。
戒律をつくってはならん、戒律がなくてはグニャグニャになると思ふであろうなれども、戒律は下の下の世界、今の人民には必要なれど、いつまでも、そんな首輪はいらんぞ、戒律する宗教は亡びると申してあろうがな。
以上のように宗教の在り方について書かれている箇所が日月神示には多いです。
ただし、宗教の教祖である釈迦やキリストが悪いとは書かれていません。
悪いのは宗教組織を維持管理する役員であると書いているところもポイントです。
何処の教会も元はよいのであるが、取次役員がワヤにしてゐるのぞ、今の様(さま)は何事ぞ。此の方は力あり過ぎて失敗(しくじ)った神ざぞ、此の世かもう神でも我出すと失敗るのざぞ、何んな力あったとて我出すまいぞ、此の方がよい手本(みせしめ)ぞ。世界かもう此の方さへ我で失敗ったのぞ、執念(くど)い様なれど我出すなよ、慢心と取違ひが一等気ざはりざぞ。改心ちぐはぐざから物事後先になりたぞ、経綸少しは変るぞ。今の役員、神の道広めると申して我(われ)を弘めてゐるでないか、そんな事では役員とは言はさんぞ。
海の巻 書きしらすぞ、五つに咲いた桜花、五つに咲いた梅の花、皆始めは結構であったが段々と時経るに従って役員が集まってワヤにいたしたのぢゃ、気の毒ぞ、神の名汚しておるぞ。
本来、どの世界的宗教の教祖も「戦争はするな、争うな」と言っているはずです。
それでも宗教が原因で世界で戦争が起こっていますよね。
ここで、大事なのは、誰が戦争を起こしているのかという話です。
当たり前のことながら、それは教祖ではなく、宗教団体の役員や幹部、政治家をはじめ組織を維持することで利益を得ようとする人たちなのです。
宗教が政治利用されてしまったのです。
精神性だけの宗教に足りないもの
また、日月神示には次のような一節もあります。
今迄の宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か。悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。
あまりに精神性の世界に入り込んでしまう宗教は、肉体を不浄なものと定義している場合さえあります。
また、世捨て人となり山にこもって修行するというのも同じですね。
これについても日月神示で次のように振れています。
じゃと申して、仕事休むでないぞ。仕事は行であるから務め務めた上にも精出して呉れよ。それがまことの行であるぞ。滝に打たれ断食する様な行は幽界(がいこく)の行ぞ。神の国のお土踏み、神国の光いきして、神国から生れる食物(たべもの)頂きて、神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬのざぞ。
本当の意味での修業とは仕事であると書かれています。
慾が出ると分らんことに、盲になるから、神、気つけるぞ、神の御用と申して自分の仕事休むやうな心では神の御用にならんぞ、どんな苦しい仕事でも今の仕事十人分もして下されよ。神は見通しざから、つぎつぎによき様にしてやるから、慾出さず、素直に今の仕事致して居りて呉れよ、その上で神の御用して呉れよ。
要するに世を捨てて修行三昧の生活は本人の自己満足に過ぎないのです。
これについては、かの有名な(スウェーデンの科学者であり神学者でもある)スウェデンボルグは(天使との対話を通じて)次のように言っています。
「他人への役立ちの無い精神的生活だけでは、天に通じる喜びを受け入れられなくなる」
まさに同じ趣旨のことを言っていることがわかります。
宗教といえば修行であり、修行と言えば断食や滝行である。
その行為自体が悪とは言いませんが、時と場合によっては公益の無い自己満足と言えますよね。苦笑
こうして、宗教は時に政治に利用され、時に世を捨てる場に利用され、本質を見失っていきます。
「仏教と共に仏魔わたり来て」というフレーズはまさにこのことを指しているのです。
これにより、日本古来の神道の文化がないがしろにされ、五度目の岩戸が閉められてしまったのです。
【日月神示・解説】日本は過去に五度も外国に乗っ取られた!諸悪の根源はイザナギとイザナミが生んだ幽界だった。~五度の岩戸閉め「一度目」
終末に訪れる岩戸開きとは何か?
以上が日月神示のいうところの五度の岩戸閉めです。
かなり詳しく解説をしたつもりではありましたが、いかがでしたでしょうか。
しかし、岩戸閉めの経緯も大事なのですが、本当に大事なのはこれから起こる岩戸開きです。
日月神示ではすでに岩戸は開かれているとしていますけどね。苦笑
天の岩戸開いて地の岩戸開きにかかりてゐるのざぞ、我一(いち)力では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること忘れるでないぞ。霊肉共に岩戸開くのであるから、実地の大峠の愈々となったらもう堪忍して呉れと何んな臣民も申すぞ、人民には実地に目に物見せねば得心せぬし、実地に見せてからでは助かる臣民少ないし神も閉口ぞ。ひどい所程 身魂に借銭あるのぢゃぞ、身魂(みたま)の悪き事してゐる国程 厳しき戒(いまし)め致すのであるぞ。
岩戸は岩戸でも、天の岩戸が開いていると書かれています。
天=神界・霊界が先に開いて、地上の岩戸は今開きつつあるということです。
とはいえ、日月神示が書かれたのは昭和19年ですから、もう80年近く過ぎています。
次のように100年も続けて嘘は言えないと書かれていますから、きっと岩戸も80%くらい開いているんでしょう。笑
金で世を治めて、金で潰して、地固めして みろくの世と致すのぢゃ。三千世界のことであるから、ちと早し遅しはあるぞ。少し遅れると人民は、神示は嘘ぢゃと申すが、百年もつづけて嘘は云へんぞ。申さんぞ。
岩戸開き完了までカウントダウンは始まっているのです。
それは、いつなのか?
今話題の2025年なのか、それとも2030年代なのか。
その話はまた今度書きたいと思います。
記紀に書かれていないイザナギ・イザナミの会話
ところで岩戸が開くとなにが起こるのでしょうか。
日月神示にはこのような一節があります。
読む限り記紀のイザナギ・イザナミの話を引用したように読めますが、実はそうではないのです。
ここに伊邪那美命 息吹き給ひて千引岩(ちびきいわ)を黄泉比良坂に引き塞(そ)へて、その石なかにして合ひ向ひ立たして つつしみ申し給ひつらく、うつくしき吾が那勢命(なせのみこと)、時廻り来る時あれば、この千引の磐戸、共にあけなんと宣り給へり、ここに伊邪那岐命しかよけむと宣り給ひき。ここに妹(いも)伊邪那美の命、汝(みまし)の国の人草、日にちひと死(まけ)と申し給ひき。伊邪那岐命 宣り給はく、吾は一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)生まなむと申し給ひき。
この一節は、日月神示の作者が古事記や日本書紀から引用したわけではありません。
記紀にはこのような記述はないのです。
つまり、日月神示は記紀に足りない部分を書き足しているのです。
その足りない部分とはどこか?
「時廻り来る時あれば、この千引の磐戸、共にあけなんと宣り給へり」の部分です。
訳しますと、イザナミは夫のイザナギにこう言い残しています。
「いつか時がたてば、この千引の岩戸を二人して一緒に開けましょう」
なんと、イザナミとイザナギの物語は、ケンカ別れして終わりじゃなかったんです。
あえて、別れたのです。
そして、最後は岩戸を一緒に開いてハッピーエンドを迎えることになっていたのです。
ケンカ別れの夫婦は日本の夫婦のモデルではなかったのです!笑
岩戸が開くと何が起こるか?
それでは、イザナギとイザナミとで千疋の岩戸を開けると何が起こるのか?
これは、よく考えてみればわかることです。
現界と霊界を隔てていた岩戸が開くということは、霊界の扉が開くということです。
って、なんだか怖いですね。笑
前述しましたが、騙した岩戸開きの時に、アメノウズメが十種神宝(とくさのかんだから)の「布留の言」を用いて霊界の天照大神と通信をしました。
実は、このことが岩戸を開くカギであったと日月神示には書かれています。
この時代には一二三四五六七八九十の数と言葉で、死者も甦る程の力があったのであるなれど段々と曇りが出て来て、これだけでは役にたたんことになって来たのぞ。岩戸開きの鍵であったが、今度の岩戸ひらきには役にたたんようになったのであるぞ。始めに⦿がなくてはならん、⦿は神ぞ。
しかし、昔はそれ(霊媒)でよかったけども、今回の岩戸開きでは役には立たないと書かれています。
確かに、人を生き返らす(転じて霊界と通信する)ということは現界と霊界が隔たれているからこそ成り立つ手段です。
ところが今回は、現界と霊界を隔てていた千疋の岩戸が開けられて、二つの世界が一つになるわけですから、そんな手段はもう不要なのです。
そもそも霊と共存した世界のため霊媒など不要であるという意味です。
なぜ霊界とつながることが岩戸開きなのか?
では、どうして現界と霊界がつながることが岩戸開きになるのでしょうか。
これについて日月神示では、現界の物質性と霊界の精神性は不可分一体であり、どちらも重要だという説明で示しています。
とくに「物」「物質」の重要性については、日月神示のジシンの巻に重点的に書かれています。
霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。
人間には物質界を感知するために五官器があるぞ。霊界を感知するために超五官器あるぞ。神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。
地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。
いかがでしょうか。
「神界は五官と超五官と和して知り得る」と書かれているように、現界と霊界を知らねば、神の世界を知ることはできないのです。
これは、ある意味で目からうろこの内容ではないでしょうか。
一度目の岩戸閉めで霊界への道が閉ざされて、世界は物質偏重の世界となってしまいました。
二度目の岩戸閉めで天をつかさどる神(天照大神)が消えて、さらに物質偏重(素戔嗚尊)の世界へと進みました。
ところが三度目の岩戸閉めでは、物質の神、悪に見える神(素戔嗚尊)が追放され、相対的に物質と霊の距離が遠くなったのです。
とくに次のくだりは重要です。
地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。
つまり物質世界は、時間と距離の制約があることにより、すべての事象が善悪の性質を持つということです。
善悪、つまり悪が生じるのは、その性質上仕方がないことだったのです。
この点、意識だけの霊的世界では、善悪は水と油のように一瞬で分かれてしまうので、善の世界に悪は存在しません。
善なるものは、悪の存在を知ることができないのです。
逆にいえば、物質世界は時空間の制約により善悪が混在し、嫌でもお互い顔を合わせねばなりません。
しかし、善悪を知るからこそ、二つの反するものを一つに統合し、第三の新しいものを生む機会を得るのです。
はい、ここ、試験に出ます。笑
要するに、我々の祖先は素戔嗚尊を追放したことで、その機会を失ってしまったとも言えるのです。
このことは、悪と認定した国や組織は徹底的に叩いて滅ぼすという現代世界の風潮が象徴しています。
少々余談ですが、日月神示の中でも、上にあげた「ジシンの巻」だけは特殊で、古語調ではなく現代文で書かれており少々違和感があります。
なぜならジシンの巻は岡本典明氏が絵文字や記号で書いたチンプンカンプンな内容を、周辺の識者や霊能者が翻訳したとされている巻だからです。
そのため、翻訳した人の知識が多分に含まれているのだろうと推測されます。
それもあってか、このジシンの巻は、前出のスウェデンボルグの主張に非常に近い内容であると個人的には感じます。
スウェデンボルグについては、いつかまたの機会に書こうと思っています。(いつになるだろう?笑)
話はそれましたが、現界と霊界はおたがい不十分な部分を補足し合う関係であることがわかります。
これらの両方を知らないと神の世界を理解できないからこそ、この二つの世界の融合が岩戸開きの根本なのです。
現界と霊界が融合すると半霊半物質の世界が出現する
それでは、相反する性質を持った現界と霊界が融合するとどうなるのでしょうか。
これについても、日月神示は、まあ、およそ理解できない内容でもってそれを示しています。苦笑
今に大き呼吸(いき)も出来んことになると知らせてあろうが、その時来たぞ、岩戸がひらけると言ふことは【半分のところは天界となることぢゃ、天界の半分は地となることぢゃ】、今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ、今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ、一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れかえて、ミロクの世の人民としてよみがへらす仕組、心得なされよ、神様でさへ、この事判らん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ。
半分が天界となり、半分が地上となると書かれています。
今の科学では岩戸を開けないと書かれているということは、現代科学を超えた何かが起こるわけですから、これは僕らに理解できないのも当然です。
しかも、人間はいったん仮死状態にして、次の世界の住人にするというのですから、もうお手上げです。苦笑
そして、この新しい世界のことを日月神示は半霊半物質の世界と呼んでいます。
マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ。岩戸ひらきとはこのことであるぞ、少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組。
このように岩戸開きとは、まさにこの半霊半物質の世界のことであると明確に書かれています。
なんだか急に科学的というか、まあ科学を超えている話ではありますが、少なくとも神話の世界ではありませんね。
これについては次のような一節があります。
八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。百年も前からそら洗濯ぢゃ、掃除ぢゃと申してありたが、今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。今迄の岩戸ひらきと同様でない、末代に一度の大岩戸(言答)ひらきぢゃ。
不完全な物質偏重な八割の世界が、十割の完全なる世界に移行するという「八方的地上から十方的地上となる」のくだり。
この一節で思い浮かぶのは、イザナギとイザナミの卵の話です。
そういえば、そこでは次のように原子の世界にも触れていましたよね。
四と八によってなされたのであるから、森羅万象の悉(ことごと)くがその気をうけてゐるのであるぞ。原子の世界でもそうであろうが、これが今の行き詰りの原因であるぞ、八では足らん、十でなくてはならん、でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因はこれで判ったであろうがな。
恐らく化学的に物質の組成が根本的に変わるのでしょう。
と考えたら、なんとなくアセンションという言葉が頭に浮かびました。笑
地球がフォトンベルトを通過するという話です。
岩戸開きこそが、まさにアセンションなのでしょう。
なにか地球的に、いや宇宙的に大きなイベントがあるのかもしれません。
とすれば、ベテルギウスが超新星爆発を起こし、その影響が地球にやってくるのかもしれませんよね。
または、謎の暗黒惑星ニビルがやってくるのでしょうか。
ニビルについては、トドメノフミに書かれていた元極体主王大御神がそれに該当すると個人的には考えています。
人間は輪廻転生を超えていく
または、(そのうちブログに書こうと思ってなかなか書けてない)、ヘミシンク開発者であるロバートモンローの言うところのアースチェンジがやってくるのでしょうか。
アースチェンジとは文字通り地球の大変革でありますが、その具体的内容についてモンローは言及していません。
しかし、アースチェンジ後の世界については詳しく語っています。
そこでは、人間は自由に肉体に入ったり離れたりできるのですが、これがまさに半霊反物質の世界なのです!
詳しくは、下記をお読みください。(またブログに書きますけどね)
モンローのアースチェンジ後の世界では地球を取り囲む「霞(のようなもの)」が取り払われていると書かれており、この霞とは日月神示で言うところの幽界を指します。
モンローの言う地球を取り囲む「霞」つまり「幽界」というのは人間の想念が作り出した霊的世界なのです。
日月神示では、次のように幽界を説明しています。
地獄は無いのであるから行けん道理ぢゃなあ。曲って世界を見るから、大取違ふから曲った世界つくり出して、自分で苦しむのぢゃ。其処に幽界出来るのぢゃ。有りてなき世界、有ってならん。
しかし、次に示すとおり、岩戸開きのあと幽界は神界の一部に引き寄せられる(浄化される)のです。
念の凸凹から出た幽界を抱き参らさねばならんのざ。中々の御苦労であるなれど、幽界を神界の一部に、力にまで引きよせねばならん。
ちなみにモンローの言うアースチェンジの後には、地球を取り巻く「霞(幽界)」がきれいさっぱり無くなっていると書かれています。
これは岩戸が開ければ幽界もなくなるとする日月神示と見事に合致するのです。
幽界は本来は無いものであるが、人民の地獄的想念が生み出したものであるぞ。
ロバートモンローはアメリカ人(故人)ではありますが、異なる文化の人が「アースチェンジ」という概念で「岩戸開き」を語っているのです。
この点、前出のスウェデンボルグも、モンローの霞の話や、日月神示の幽界と全く同じような概念で死後の世界を説明しています。
このように、それぞれの時代の人が同じものを見て、似たような解釈をしているのです。
地球が宇宙的イベントにより大変革を起こして、すべての組成が変わって霊と物質が混在する世界を作り出す。
霊と物質が混在すれば、生死もなくなり、それはつまり輪廻が無くなるとも言えます。
ついに人間は輪廻転生を超えていくことになるわけです。
そんな世界が待っているということを日月神示は語っているのです。
以上ですが、かなり長くなりましたが五度の岩戸閉めと、岩戸開きについて書いてみました。
なぜ岩戸が閉められたかを知ることで、どう岩戸を開いたら良いかの参考になればいいなと思っています。
日月神示には国の岩戸もあれば、個人の岩戸もあると書かれていますからね。笑
最後に少し所感。
よくよく考えれば、世の中はシンプルなんですよね。
日月神示も難しいことは言ってないと思うのです。
賢い人しか天国に行けないなんてひどい話ですから。
でも、現代人からすると、それをすることがやたらと難しく思えるのですよね。
「言いたいことはわかるけど、それは現実的ではないよ」
そんな声が聞こえてきそうです。
世の中が複雑になればなるほど、物事の本質は失われ、価値観は崩壊し、まるでゴミのようなものに価値を感じて血眼で大騒ぎをします。
まあ、みなさん、世の中そんなもんだと分かって楽しむことで、とりあえず日々をしのいで行きましょう。苦笑
時にこうしてシンプルな本質を世にさらして行くことで気が付く人も少しづつ増えて、仲間も増えていくことでしょう。
明日何が起こるかわからない時代ですが、本質を見失わないよう、一緒にがんばっていきましょう。